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日本経済の停滞感に関する文化的考察

先日、「国の借金とか年金とかいろいろ問題になってるっぽいけど、実際のところどれくらいヤバいの?」という記事を書きました。

要点をまとめるとこんな感じです。

・大赤字なのは「日本政府」であって、「日本」はずっと黒字
・日本はお金をどんどん刷って財源を確保すればいい特殊な国
・財政破綻(債務不履行)やインフレもおそらく起こらない
・年金制度もまだ当分の間は大丈夫

ただしこれは、「日本経済の“崩壊”を心配する必要はそんなにない」というだけの話です。
それでもやはり、今の日本に閉塞感・停滞感があるのは事実です。

じゃあその原因は何なのか? 景気は良くなるのか?
生活は楽になるのか? 日本の経済は成長できるのか?

そんなことをできるだけ多面的に考えてみたいのですが、
今回は、金融やら税金やら貿易やらの難しい話はあえて避けて、文化的側面から考察してみたいなと思います。

ゆとり教育的な空気感の広がり

ここでは、「ゆとり教育」が経済停滞の元凶だと言いたいわけではありません
注目したいのは、「ゆとり教育」そのもの、あるいはそこで育った「ゆとり世代」よりも、それに付随して社会で重視されはじめた「個性の尊重」という価値観です。

この価値観はさらに拡張されて、
「本人のやりたいことをやらせましょう」
「やりたくないことを無理やりやらせるのはやめましょう」
「必要以上に競争させて勝ち負けを付けるのも避けましょう」
などといった教育方針になりました。

「個性の尊重」自体はとても大切なことです。
実社会にどの程度適合しうるかはさておき、その価値観自体は広く受け入れられるものだと思います。

しかし、その結果として何が起きたかというと、
我慢してまでやりたくないことをやろうとは思わないという人が増え、そして、彼らにそれを強要することを許さない文化が形成されたような気がします。

いや、決して根性論を再び押し付けたいわけでも、この価値観自体を否定したいわけでもないのです。
ただ、そういう「ゆとり教育的な空気感」があるということを仮定してみると、どうやらこの日本の停滞感にも通ずるところがあるように思えるのです。


自由と責任の歪み

そんな空気感が定着した結果、どうやら若年層を中心に主権と責任の放棄が進んだように思われます。

先日行われた参院選では、投票率が5割を下回るほどに低い結果となりました。
投票に行かなかった人達の理由としては、「政策が分かりにくい」「投票しても結果は変わらない」「政治に期待していない」など、政治への不理解・不信・無関心が挙げられています。

しかし、本当にそれが理由なのでしょうか?
優れた政策が提案され、その意味が分かりやすく解説されて、希望を託すに値するほど有能で実行力のある政治家が増えたとしたら、それで投票率は上がるのでしょうか?

いや、どうにもそうは思えないのです。

これに対し、非常に納得感のある解釈をされていたツイートがこちらです。

投票に行かないのは、政治に関心がないからでも、よく分からないからでもなくて、自分達の力で社会を変えてしまう力があることを認めたくないからだというのです。

それを認めた瞬間にこの社会に対する責任を負うことになりますから、そんなに大きな責任を負うくらいなら、「自分の力ではどうすることもできない途方もない何か」のせいにしておく方がずっと楽なのです。
もしこの仮説が大きく外れていないのだとしたら、これはもう完全にデモクラシー(民主主義)の敗北だと言わざるを得ません。

本来、「自由」には相応の「責任」が伴うというのが社会の大原則です。
もう少し丁寧に説明するなら、「自己の利益のために自ら選択・決定を行ったのならば、その結果生じた不利益についても自ら引き受けなければならない」ということです。

ところが日本というのは、古くから個に責任を負わせることを避けてきた文化がある社会です。
集団で農業を行ってきた農耕民族であり、「連帯責任」という不可解な慣習が未だに残っていることからも、比較的、個人責任があまり馴染まない文化だった可能性が高いと言えるでしょう。

しかし、近代化の過程で欧米(特にアメリカ)の価値観を表層的に取り入れた結果、この「自由」と「責任」のバランスの取り方を見失っているのが今の日本であるように感じます。

近年の副業推進の動きも、「企業も国も、もう君達を支えられないから自己責任で頑張ってね」という本心の裏返しなのですが、表面的な盛り上がりに反して、そのメリットを最大限享受できている人はそう多くはありません。
残念ながら、大多数にとってそんな自由と自己責任論を受け入れるだけの土壌は整っていないのです。


『自由からの逃走』

エーリヒ・フロムは、1941年に発表した名著『自由からの逃走』において、「自由」を得た人々の心理と行動について分析しています。

近代化の過程で人々が追い求めてきた理想であるはずの「自由」ですが、
一方で、フロムは自由には集団という安定した土台を壊し「孤独」をもたらす一面もあると指摘しています。

個人の解放の代わりに集団の保護を失った近代人は不安・孤立感・無力感を強く感じたため、人々がヒトラー率いるナチスを支持したのも、これに対する反動だったというのです。
ナチズムを特に強く求めたのは、社会の大部分を占める下層中産階級の人々だったのですが、
彼らには、自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めがちな「権威主義的性格」があるとも述べられています。

これは、現代の日本でも当てはまるように思えます。
大多数の人たちは、本当は「自由」も「責任」も望んでなどいないのです。


実は意図的に操作されているという説

もうひとつ面白い仮説を提示します。
この経済の停滞感が、実は意図的に維持されているという可能性です。

『インベスターZ』第5巻でも指摘されていますが、国全体を「そこそこ貧乏」な状態で統治することが、安定した長期政権を維持するコツなのです。

「質素倹約こそ美徳」「金儲けは賤しいもの」といった教えは、実は徳川家康の時代に広められたもので、それらは現代までしっかりと受け継がれています。
こうした価値観を植え付けておきつつ、税金や規制などで社会全体を「そこそこ貧乏」な状態でキープすれば、統治者としては非常にやり易くなるからです。

金や権力を持たせすぎると支配権を奪われますし、かといって、まともに食べていけないほど貧しい状態にしてしまうと暴動が起きます。

ちょうど今の日本くらいに「そこそこ」の貧乏レベルで維持すれば、
基本的に人は自責よりも他責でいる方がずっと楽なので、「この国はもうダメだ」と愚痴を言いながら酒を飲んで、それで満足して大人しくしていてくれるわけです。
もしこの状態を誰かが計画的にキープしているのだとしたら、これは大したもんだと思います。

まあ、ちょっと乱暴な仮説ではありますが、この停滞感が意図的なものではないにしても、結果的に「そこそこ貧乏」状態は実現されているわけで、
それが統治しやすいレベルに収まっているうちは、なかなか社会は変わらないかもしれないなあと思ってしまいます。


まとめ

今回は、日本経済の停滞感・閉塞感の原因について、文化的な観点から考察をしてみました。
もちろん、税制や金融など構造的な要因は多々考えられますが、そうした公式のルールは比較的容易に変えることができます。
他国の優れた政策をそのまま取り入れることもできるでしょう。

しかし、そこに文化的・心理的な要因が絡んでいるような場合には、問題解決には期待よりも長い時間がかかってしまいます
自然と定着してしまった文化や慣習といった非公式な制約は、意図的な政策の変更の影響を受けにくいのです。

また、将来に対して不安があると、人は消費を控え、より貯蓄を増やそうとし、経済を停滞させる悪循環が生じます。
いくら仕組みを変えたところで、将来に対してある程度の希望や期待感を感じられない限り、人々の行動はほとんど変わりません

意外と日本の財政はヤバくないのだという記事を書いたのにも、そうした不安感を少しでも軽減させたいという思いがあります。
根本的な課題は何なのか、それを打破するためにはどうすればよいのか、広く長い視点をもって、より多面的に考えていきたいものです。

他にも面白い仮説、あるいは別の立場の意見等あれば、ぜひ気軽にコメントしてください。

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