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AD1586越前国大野

「夏草や」

 大叔父が呟いた。床に転がり禿頭を腕で支え、空いた手で缶ビールの縁を撫でながら。その姿は関東との外交を担う三千石の侍というより、孤独死を待つ常習万引き老人のように見えた。

「なんです?」
「酔うとるで、思い出すのよ。山野を駆けずり回り、餓狼どもと手柄を争うた日々をな。なんもかんも失うたあの夏をな」

 炒り豆を齧りながら聞き返す。返ってきた声は少しも酔ってはいなかった。死線を越えた人間は何人も見てきたが、この老人の影は格別に暗かった。

「して歌心が芽生えなさったと。夏草や……その先は?」
「浮かばん。忍びあがりの儂に、われのような”ふりゅう”は無理じゃな慶次郎」

 大叔父は指で”強調”しながら言った。
 武田討伐の褒賞に国より茶器を望んだ、当代屈指の風狂が何を言うか。呆れた視線に気付いたのかどうか、かつて織田の天下でその後継ぎの軍事顧問にまで昇り詰めた男――滝川左近将監一益は、ふふんと笑って缶を呷った。

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