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なつやすみ自由研究:3つの逆手から読み解く『ナラーバーニンフ』

はじめに
本記事は映画の感想文ではなく、オススメ作品として紹介するものでもありません。独自研究です。記事内すべての情報に正確性の保証はなく、映画本編を鑑賞することでお前が受ける精神的・肉体的負荷に対して一切の責任を負いません。自由研究だからです。


2019年夏、一人の勇敢な戦士が無限の荒野から探り当てたホラー・コメディ映画『ナラーバーニンフ』。みなさんはご覧になられましたか?

もう見た方、お疲れさまでした。荒野の66分を生き延びた同胞として、本稿が作品鑑賞をより良い思い出に昇華する一助となることを願ってなりません。

まだ見てない方、何をしている。とりあえず見てきてください。5秒だけでいいから。音を聴けない環境でも大丈夫だから。それだけで本稿から読み取れるものが大きく変わるはずです。見てきて。

いやまあ、どっちでもいいか。別にオススメしたいわけではなかったので、見ても見なくてもどっちでもいいです。始めましょう。

(楽しい音楽)『ナラーバーニンフ』オープニングテーマ。味。


ナラーバー? ニンフ? ナラーバーニンフ?

『ナラーバーニンフ』はフェイクドキュメンタリー:モキュメンタリーの要素を持つホラー映画だ。怪異にまつわるインタビューが流れる前半がまさしくそれで、その怪異との対決を映す後半でも登場人物がカメラに語り掛けるカットが挿入される。半モキュメンタリー、とでも呼ぶべきだろうか。

まずはAmazon.co.jp配信ページからあらすじを引用しよう。

彼らを発見するためだけにNullarbor Plainに沿って外出する2人のWater Australiaの従業員が、神話上の生き物Nullarbor Nymphに捕まっているのを追った。

まあ待て。その件については後で話し合おう。ひとまず原文を理性的にしておくので刀を引いてほしい。

我々は二人の男を追ってナラーバー平原を進んだ。彼らは神話上の怪物、ナラーバーニンフに捕らわれたという……。

物語の舞台はオーストラリア南部に実在するナラーバー平原。ここについてはwikipediaが把握している。表記ブレは気にするな。

オーストラリア本土にはアウトバックと呼ばれる人口希薄地帯(人口密度1人/㎢以下の砂漠や乾燥地帯)が存在する。ナラーバー平原はその一角。マッドマックスめいた荒野、と言われればピンとくる読者も多いだろうか。長い長い道路が走り、男が復讐に狂い、カンガルーがはねられて死ぬ乾いた土地だ。

そして物語の鍵になる存在が、映画のタイトルでもあるナラーバーニンフ。ニンフはギリシャ神話に登場する妖精ニュンペーの英語呼称で、女性の姿を持ち、旅人を魔力で惑わせたり恋した若者を攫ったりしたという。ナラーバーのニンフ、ゆえにナラーバーニンフ。実は英語版wikipediaにページが存在する。

1971年、「カンガルーの皮を身に纏いカンガルーの群れに混じる白人女性」の映像が世界に流れた。人々は彼女をナラーバーニンフと呼んだ。

そう、勇敢なるishiika78さんも先の記事で触れている通り、ナラーバーニンフは実際に流布した都市伝説だ。仕掛け人がデマだと認めたのは翌1972年というのだからかなりの短命。さすがに無理があったのでは?

実在する土地を舞台に、実際に流布した都市伝説を題材にすることで、観客の理解をスムーズにし、モキュメンタリーとしての臨場感を高める。ここに一つ目の工夫がある。

はっきり言って『ナラーバーニンフ』はかなりしょうもない映画だ。だがそのしょうもなさは、都市伝説の陳腐さを逆手に取った計算づくの犯行なのだ。

予算はない

心意気はともかく『ナラーバーニンフ』には予算がない。先に触れたwikipediaでもはっきり"low-budget movie"=低予算映画として言及されているし、監督のMathew J. Wilkinsonをはじめ複数の製作スタッフは出演者も兼任している。映像の粗っぽさや演技の脱力感を演出として活用できることもモキュメンタリーの利点であるため、これも一つ逆手に取ったとは言えるだろう。だが『ナラーバーニンフ』の工夫はそれだけでは終わらない。

予算がない。ゆえに本作はほぼナラーバー平原だけを舞台として進む。移動したり撮影許可を取ったりする手間と時間を省くために。

予算がない。ゆえに本作はほぼ昼間の映像で構築されている。夜間の撮影は照明や機材が必要になるからだ。あとたぶん夜のアウトバックは物理的に危ない。カンガルーとか。

予算がない。ゆえに本作はおそらくVFXを用いていない。モキュメンタリーとしての質感を損なわないレベルのCGを用意するのは大きな作業になってしまう。

荒野、真昼間、CGなしのホラー映画。それぞれで見れば厳しい要求だが『ナラーバーニンフ』はクリアした。ただ単純に、そのまま映すことによって。

果てしなく広がるナラーバー平原、アウトバックはその人口密度の低さゆえに、道路から離れてしまえば余人と出会うことはまずない。何が起こっても助けを求める第三者はいない。つまりこの舞台はクローズド・サークルとしての条件を満たしている。だからこそ真昼間から現れる怪異をれっきとした脅威として描くことができる。CGなど必要ない。ナラーバーニンフは「カンガルーの皮を身に纏い、男を襲う女性」でさえあればいい。スプラッタシーンは特撮がいい。何かを燃やしたければ燃やせばいい。

このように過酷な条件を逆手に取ることで、『ナラーバーニンフ』は誰も見たことがないホラー映画として成立した。

なおナラーバーニンフという怪物は男性の陰茎を主食とし、本作にはモザイク加工も施されていない。そんな予算は……そんな興ざめの演出は……いや、本当にそういう理由なのか? わからなくなってきた……

(カサカサ)(くすみ音楽)(波がクラッシュ)

さて日本語圏から本作を鑑賞するからには触れざるを得ない問題が残っている。奇怪な字幕だ。本項目の題名は本編開始から30秒の間に表示される字幕であり、最初に発声される台詞の字幕は――

-私は今、これを文書化することを決めた理由を私はわかりません。

66分間この調子だ。凝視し続ければ気が狂う。

勇敢なる戦士はこの手の異常はGoogle翻訳によるものであると推察している。先延ばしにしたあらすじの件も同様だろう。つまりローカライズに当たって翻訳家を雇う予算を出さなかったということであり、低予算ゆえの工夫を重ねた本編とはまったく事情が違う。手抜きそのものだ。

誉められたことではない。ないのだが……こればかりはお前自身の目で確かめてもらうしかない。少なくとも俺は、この奇怪な字幕込みで本作を大いに楽しんだ。特にインタビューパートの退屈さをやり過ごすにはうってつけだった。

これでは内容についていけない、という不安は完全に捨てて良い。インタビューパートに関しては大した話はしてないっぽいし、ナラーバーニンフとの対決パートは映像だけで十分に楽しめる良心的なシーンになっている。

エンターテイメント作品として面白さと突飛さを真摯に目指した本作だからこそ、この字幕禍さえも受け止め、一つのスパイスとして逆手に取ることができた。これが三つ目だ。それはそれとして翻訳はちゃんとやれ。

余談として、本作の字幕に関する疑問点と推察を記します。

・どうして台詞のない場面で字幕が出たり、英文が画面に映るときに出なかったりするの?
 →作業の手間からすれば本編映像から音声を書き起こしたとは考えづらいため、実際の台本かそれに準じる原稿、音声スタッフへの指示書などをそのまま機械翻訳に流したのだと思われます。
・ところどころ挟まるドイツ語らしきものは何?
 →言語の構造から、英語⇒日本語より英語⇒ドイツ語⇒日本語の方が翻訳精度が上がるという理論がある……のかもしれません。参考:ドイツ語と日本語は他人の空似(https://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g005727)

何もわかりません。

なぜこんな記事を書いたのか

(はつらつと音楽が)『ナラーバーニンフ』エンディングテーマ。イマジナリーフレンド。楽曲や劇伴、カメラワークなどは実際侮れないクオリティを誇る。

機械翻訳は、ひどい。確かにひどい。笑ってしまうが、それは本来作品を台無しにする笑いだ。どれほどの低予算映画だろうと、全くの素人が作った駄作だろうと、こんな目に遭う謂れはない。興行主義の暴力だ。もし純粋に期待していた作品がこんなことになったとしたら、お前も怒りや悲しみを抱いていたはずだ。あるいはお前が制作側だったとすればどう思うか。

だがその暴力が俺とお前を『ナラーバーニンフ』に導いたこともまた事実だ。そして本作には暴力を跳ね返すほどの面白さがある。

俺は『ナラーバーニンフ』にエンターテイメントの本質を見た。それは真摯に取り組む姿勢だ。面白さという手に掴むことのできない概念について考え、整理し、工夫し、信じることだ。この記事はそのことを気づかせてくれた本作と制作陣、鑑賞のきっかけをくれた戦士たちへの感謝を形にしたものだ。

『ナラーバーニンフ』は傑作ではない。絶望的に安っぽく、徹頭徹尾くだらない。気楽に楽しめるが、それ以上のものは何一つない。だからどうした。それこそがエンターテイメントというものだ。『ナラーバーニンフ』はそう思い出させてくれた。こんな酷いものをお前に勧めはしない。だが俺は、見て良かったと思っている。

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