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蓮の花は空に咲く/ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ 1st Live Tour ~RUN!CAN!FUN!~〈愛知公演〉Day.2


 2023年11月26日、Aichi Sky Expoでラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ 1st Live Tour ~RUN!CAN!FUN!~〈愛知公演〉Day.2を見ました。

 会場はAich Sky ExpoホールA、最大キャパ6500人は後方を除けばほぼ満員。開演16:30、終演20:00。ダブルアンコールを含め三時間半、披露は30.5曲。RUN!CAN!FUN!のタイトルに恥じない怒濤のようなライブだった。

 音と光は良くも悪くもバキバキで強烈。鼓膜と網膜だけでは受け止めきれない奔流に全身の間接が揺れる。ステージから飛べと言われる。跳ばずにいられない。騒げ暴れろと煽られる。まあ確かに、こうなってしまったら動く方が体に優しいと思う。

 油断なくぶっ続けにぶっ飛ぶ楽しいライブだった。だからこそ考えたくなる。私たちは何を見せられ、そこに何を見たのか。あのひたすら楽しいことばかりだった夜に何故、衝動的な快感と疲労だけではない、美しく異常なものを見たという実感があるのか。

 何を見せられたのか。二次元のキャラクターが披露したライブ、歌唱した楽曲を、声を演じるキャストが現実化するという目新しくはないパフォーマンスだったはずだ。2.5次元コンテンツの筋道を外れたものではなく、十年続くシリーズの趣向を素直に引き継ぐ構図でもある。ライブがストーリーを振り返るものになることも予告されていた。

 慣れと姿勢に個人差はあるにしても、観客は趣旨を理解してライブに臨んでいた。キャスト側も同じはずだ。この手の作品の例に漏れずキャストは、ステージ上ではキャラクターとして努力する、と口にしている。自分たちが歌い踊るのはあくまでも演技の表現。それは役者という職業が守るべきアイデンティティらしい。

 その意識はもちろん尊い。しかし同時に、異常な感覚の糸口がここにあるのではないか、とも思う。キャストの意気込みを知った上で、少なくとも私には、ステージ上のキャストがキャラクターに見えることはなかったから。私が見たのはあくまでも努力と連帯を重ねた人の姿、歌と踊りで演技をするキャストそのものの姿だった。

 ライブは本当に楽しかった。キャストのパフォーマンス、音と光のドデカい演出、観客の盛り上がりには、この夜に何かを成し遂げようという必死さがあった。だからこそ、あの熱気と意気込みにストーリーの再現を見ることなど不可能だったと思うのだ。連続で繰り出される再現ライブのボルテージは、明らかに劇中でのキャラクターの感情を飛び越えたものだったから。

 キャラクターのパフォーマンスを再現することが2.5次元コンテンツの構図と書いたが、蓮ノ空には付け加えるべき特異性が二つある。一つは彼女たちの物語が完全にリアルタイムで進行していること。もう一つは、今回のライブツアーが劇中に組み込まれたことだ。2023年の10月から11月、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブは福岡、東京、愛知でライブを行った。この月日はストーリー上の史実になった。

「……来週は福岡でのライブがあるため、With×MEETSでの配信をお休みさせていただくことになりました」 乙宗梢

福岡公演の前週、2023/10/15の配信、17:00〜

 挑戦的な構造の意義は脇に置く。ここで触れたいのは、現実のライブとストーリー内での言及には微妙な差異があるということだ。

 現実の蓮ノ空にとって、今回のライブは初めてのライブツアー。一方、劇中の蓮ノ空が一連のイベントを表現する言葉は「お呼ばれした遠征」に過ぎなかった。現実には重大だったイベントは、劇中ではたまにある出来事のように扱われた。

 その意図は想像できる。現実のイベントを劇中で大きく扱ってしまえば、ライブに参加しなかったユーザーの心を遠ざけるだろう。あとから作品に触れる立場でもノイズになりかねない。行き過ぎないバランス感覚が働いたことは理解できる。作風に不満はない。

 そう踏まえた上で、だからこそ私は、キャストがキャラクターに見えることなど有り得なかったと思うのだ。あのステージでキャストが放った1stライブツアーの必死さは、キャラクターが遠征ライブで見せたであろう感情の重さを、はるかに超えるものだったから。

 どでかい音響に張り合うクラップをさらに貫く歌声。目を合わせ腕を組み、時に抱き合うステージ上。周回するトロッコから全員と目を合わせようとするキャスト。短いMCで語られる感謝。あまりに大きな感情。

 ライブの後半、一度目のアンコールに応える形で、キャラクターの立体映像がステージ上に現れる。思い返せば奇跡のような演出だが、私は不思議なほど驚かなかった。六公演目の千秋楽であり、投影技術が既知の物であるとはいえ、客席にも驚きは少なかったように思う。むしろ当然だと言うような空気すらあった。これだけの熱量、これだけの歌と踊りと歓声、光と音の氾濫があれば、奇跡の一つぐらい起こるだろう。

 などと書きながら過去の生配信を流していると、キャストの言葉に耳を引かれた。ライブツアー開演前の意気込みを語る場面だった。

「……私たちが踊ったり歌ったりしてるけど、メンバー6人の顔を思い浮かべながら、気持ちを、思い出を思い出しながら見てくださったら、すごく嬉しいなと思っています」 夕霧綴理/佐々木琴子

2023/10/8のキャスト配信、56:55〜

 ああ、そういうことになるのか、という納得があった。再現という行為を思い出すためとするのなら、話の脈絡はスムーズに通る。前段までも間違いとは思わないが、キャスト側の証言が腑に落ちることは単純にありがたい。少なくとも逆に感じるよりはよほど良い話だ。

 現実のライブを見た私たちは、過去と未来のフェスライブに会場の光景を落とし込むことができるようになった。と言うよりむしろ、ほとんど自動的な反応として、思い出さずにはいられなくなった。その状態を作るために努力されたステージなのだとしたら、その挑戦は間違いなく成功していた。

 愛知公演から三日後、11月度Fes×LIVE(キャラクターが配信する月一のライブ)を見た。

「Link!Like!ラブライブ!103期11月度Fes×LIVE みんなで!応援上映」イオンシネマみなとみらい

 私は、佐々木琴子さんの言葉の通り、ライブの光景と目の前の映像を混合し思い出していた。なるほどこういうことか。そして同じことがキャストにも起こるのではないかと気づき、一人で身悶えした。

 配信ライブにおいて私たち観客が客席から見た会場を思い出したように、キャストもまた演技をしながらステージから見た光景を思い出すのだ。そしてそのイメージは、劇中のキャラクターが見ている光景とも重なるに違いない。ライブを経ることでキャストの演技は精度が上がっていく。また観客も同じだ。ライブの光景を思い出しているとき、私たちの知覚はFes×LIVEの観客に接近している。

 そうして、観客の想像とキャストの想像が衝突したイメージの座標で、蓮ノ空の情景は完成する。蓮の花は空に咲く。


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