努力の意味を追いかけて

毎日文章を書くって、難しい。1day1noteだとか宣言してみたものの、のっけから2日に一回ペースが精いっぱいだ。

そもそもの目的は「自己採点が100点でない状態でもアウトプットできるようになること」だった。100点を目指し過ぎることが裏目に出る機会も多いから、短時間でハイクオリティなアウトプットができる状態を目指したいと思って始めたわけだ。その方向性は今だって全然揺るがないし、自分に必要なことだと思う。

だけど、毎日noteを書こうとすると、どうしても「せっかく書くなら、いい読み物にしたい」だとか、「将来に繋がるような何かを書きたい」とか、余計な欲がでてくる。書くことだけが目的になって、クオリティを二の次にして、駄作を量産する習慣に、意味はあるのだろうか。つい、そう考えてしまう。そう思ってしまうと、筆は止まる。

だけどやっぱり、それでも書くべきなんだろうな。今は、「毎日駄作を書くこと」が大切なんだ。極端だけど、そういうことだ。

今の僕には、「クオリティを保ちながら書く時間を縮めていく」方法が浮かばない。でも、「書く時間を縮める方法」なら浮かぶ。シンプルに、クオリティを下げることだ。僕の制作時間の長さは、クオリティを求めるこだわりの強さから来てたから。

クオリティを下げるのはもちろん嫌だし悔しいしそんなことする意味をつい疑いたくなるけど、僕は今、「短時間で/ハイクオリティな/ものを生み出す」の、「短時間で/ものを生み出す」の部分のトレーニングをしているんだ。これを当たり前にできるようになったら、「ハイクオリティな」を足すための努力をするんだ。

考えるって大事だなあ。ただなんとなく、「毎日駄作を書く」という作業になりかけて、努力を疑いかけた。疑っちゃうと、意味を見失っちゃうと、続かない。でも、きちんと考えてみれば、「毎日駄作を書く」は、ちゃんとその次で「ハイクオリティな」に繋がるんだ。それが見えてれば大丈夫だ。いやあ、考えるって大事だ。明日からも書けそうだ。2日に1回かもだけど。

そういえば、メジャーリーグで活躍しているダルビッシュ選手も、「努力は人を裏切らないっていうけど、頭を使って努力しないとふつうに嘘つくよ」みたいなことを言ってたな。

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