見出し画像

「自分らしく」なんかいられない僕たちを、愛せ

「自分らしさ」とか「あるがまま」とか、そういった言葉で表現されるあなただけが、はたして「ほんとうのあなた」だろうか。

たとえば僕は、毎日一生懸命に「人には見せたくない自分」を隠しながら生きている。ともだちの成功にお祝いのメッセージを送りながら、胸のうちでは熱っぽい嫉妬心がイライラと貧乏ゆすりをしている。あたかも深く考えているように今の自分を語りながら、ほんとうは大切なことを全部後回しにして逃げ続けている怠け者の自分がいる。下心なんて全然ないふうに女の子と話してるようで、どうしようもなくスケベな気持ちがそりゃもうすごくある。

もちろんそんな僕ばっかりじゃないけれど、人にはとてもお見せできないような自分が、たくさんいる。たくさんいるので、隠して、演じて、自分にとって都合がよくて、相手にとっても素敵に思ってもらえるキャラクターをその場その場で演出している。「自分らしく」「あるがまま」の自分をさらけ出している時間は、残念だけど、僕の生活にはあんまり多くなさそうだ。

だけど僕は、「自分らしく」いることや「あるがまま」でいられる時間だけを「ほんとうの自分」のように扱うことは、できるだけしたくないなと思う。

そりゃ、媚びたり相手に合わせたり、言いたいことを言わなかったりする自分を、寂しく振り返るときもある。ふと独りになった瞬間に、「ほんとうの自分」でいられる時間の少なさに気づいて寂しくなる。そしてときどき、そんな毎日に疲れて、自分を嫌ったりもする。

だけど、「評価されたくてつい相手が望むキャラクターを演じてしまう自分」も、「自分に自信が持てなくてダメなところを隠してしまう自分」も、「目の前の誰かに好かれたくて思わず背伸びしてしまう自分」も、そんな愚かで器用で情けない自分も、全部ぜんぶほんとうの自分だものな。

世の中の、「自分らしく」「あるがまま」でいることを美徳とする声は、決して小さくない。そしてその声は、たとえば僕が星型だとして、「いつだって星形でいること」を美徳とするかのような語られ方をすることも少なくないように思える。それこそが美しくかっこよく、素敵なあり方で、自分の形を回りに合わせて変える生き方は、醜くダサく、悲しい。そんなふうに思えてくる。

だけど、人間ってそんな単純なものじゃなく……ないか!?もともとの形なんて、あるだろうか。ほんとうの自分なんて、あるだろうか。仮にあるとしたって……その形のようなものを保ち続けることだけがほんとうに唯一無二の、美しい、絶対的に素敵なあり方だろうか。

いつだって素の自分でいられることは、もちろん素敵だと思う。だけど、そうはいられない自分のことをただただ虚しく思ったり、悪く言っりして、そこで思考をストップさせてしまうのは、なんだか寂しくて僕はいやだ。

相手が望むキャラクターを演じているとき、きっと僕たちは、それぞれに何かを守っているはずだ。

ある人にとってそれは、上司に好かれて出世して、たくさん稼いだお金で家族と楽しく暮らすことかもしれない。ある人は、自分とはタイプが全然違くたって、イケてる同級生と仲良くなって肩を並べてみたいのかもしれない。そしてある人は、高嶺の花のあの人にどうしようもなく恋をして、なんとかこっちを振り向いてもらいたいのかもしれない。化けてでも守りたい大切な何かが、理由が、いつだってそこにはあったはずだ。たとえそれが、「波風を立てたくない」だけの極めて消極的なものであっても、今の自分にとってそれが大切なことなら、そのために肉を切って骨を断つことは悪いことじゃない。何が大切かなんて、人それぞれだものね。
(もしその理由を大切だと思えなくなったら、そのときは、その努力から逃げ出すべきだと思うけど。)

そして、僕たちがダメなところを隠したり、自分をよく見せようと一生懸命背伸びをしているとき、僕たちはほんとうに少しずつだけど、「なりたい自分」に近づいているはずだ。

「そうあろうとすること」は、そのまま自分のあり方なんじゃないだろうか。偽って、装って、必死こいて背伸びして、そうやって一生懸命「なりたい自分」を演じながら、僕たちは等身大の自分とのギャップを何度も思い知る。悔しくて、もっと上手に演技できるように頑張って、少しずつその姿は様になっていく。そんなふうに切実に、人間らしくもがく自分の姿を「ほんとうの自分」と思えないのは、寂しい。僕は、その泥臭さ、醜さだって、あるがままの自分だと思いたい。

最後にね、裸のまんまの自分でいる人だってもちろん素敵だけれど、裸の上に何枚も重ね着して装ってるあなただって、ものすごく人間味にあふれていて素敵だと僕は思う。個人的には、すごくいいと思う。

「こんなふうに思われたい」とか「なんとか好きになってほしい」とか、なんなら「怒られたくない」とか「嫌われたくない」だって、そういう切実さ、心細さ、心もとなさからは、とても人間的な香りがする。偽って装って、必死に隠そうとした作為の隙間にこそ、どうしようもなく人間らしい「その人らしさ」が顔を覗かせている気がする。そこには、抱きしめたくなるような愛くるしさがあるよ。僕にもそんな香りや愛くるしさがたんまりあるし、きっとその「作為の隙間に覗く無作為」のチラリズムが大好きだという人も、僕だけじゃないはずだ。だから大丈夫。ツギハギだらけの僕たちを愛してくれる人たちだって、きっとたくさんいる。

僕はべつに、自分を押し殺して過ごすこと自体を肯定したいわけじゃない。そんなこたない。僕だって、押し殺さなくていい自分になりたい!でも、自分を押し殺して過ごしてしまう今の自分をそんなに否定することもないよ、と言ってみたいだけ。

くどいようだけど、いつも自分らしくいることを否定なんかしちゃいない。そうありたい。そうあれる人を尊敬してる。だけど、なかなかそうはいかない人もたくさんいるわけで、僕やあなたを含むそういう人が、こんな自分だって悪いとこばっかじゃないやと思えたらいいなと思って書いている。「自分らしく、あるがままでいること」たった一つが、今この瞬間、すべての人にとって正解というわけじゃない。今の自分がそれに当てはまれないからって、今の自分に守るべき形なんかないからといって、まるっきりダメなやつってわけじゃ、きっとない。今の自分にとって大切なことをきちんと捉えて、形なんて変えていけばいいよ。何度だって。その先でいつか「いつだって自分らしく、あるがままでいられるあなた」に出会える時間が増えたなら、それはすごく素敵なことだ。

気休めというかもしれないけれど、そうだよ。

これはきっと気休めだよ。気休めでいいから、「いつだって自分らしく」なんてできなくて、「いつだってあるがまま」になんていられなくて苦しくなっちゃったあなたの気よ、休め。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?