見出し画像

La ciudad natal es la ilusión 幻想のふるさと

 モニタへ表示されたダイアログを確認した瞬間、俺は椅子を立って出かける支度を始めた。

『ブロックされています』

 朝食後、習慣のようにながめるソーシャルネット、タイムラインに表示されたアカウントへ深い考えもなく挨拶を送った結果が、これだった。いや、よく考えればいささか以上に軽率な行為だったかもしれないが、やはり過剰反応のように思えてならない。なにせ、締切を大幅に超過し、催促のメールや電話にも無反応だった作業者のアカウントである。仲介人としては安否確認を兼ねた挨拶のひとつくらい送っても、バチは当たらないだろうと思いたくなるのが人情だ。とはいえ、そんな筋論など旧規格のメモリカードほどの値打ちすらないのがこの世界でもある。
 締切を割った作業者がソーシャルネットで管を巻いているからと言って、うかつに声をかけてはならない。それがこの界隈の常識となっているほど、ソーシャルネットにおける振る舞いは微妙で神経を使うものだった。
 しかし、だ。
 それにしたって即風呂(即座にブロックする、されることを絵文字の風呂と組み合わせで表記していたところ、それが転じて常套句となり、ついには辞書へ収録された)はないだろう。おまけに、コピーとは言え解析および加工するデータを預けているのだ。たとえ進捗が思わしくなかったとしても、連絡を無視する段階で相当な問題だ。そこにきて即風呂なのだから、これはもうダメだろうなと、そんな予感に背中を押されながら、これからのことを考える。
 正直なところ、これは進行管理のみを受託した仲介と言うか下請け案件なので、成果物が回収できなかったとしても、俺が失うのは報酬と面子のみだ。また、作業者を選定したのも発注元なので、俺の人間関係に影響が及ぶこともない。発注元にも義理や借りがあるわけではなく、反対に貸しを作りたいわけでもない。
 なので、この件は発注元へソーシャルネットのブロックダイアログやメールの送信記録などを送ってこのまま終了させ、別の案件へ気持ちを切り替えるのが正解と言うか、この瞬間がまさに損切のタイミングなのだろう。しかし、どうにも腹の虫がおさまらない自分がいるのも確かで、このまま引き下がりたくないという気持ちが荒れ狂っていた。
 気がつけば、発注元へ特急券の購入許可とカード決済を求め、交通費として貸与された交通系ICカードの残高と作業者宅への経路を調べつつ、夕方まで用事も予定もなにもないことを再確認したところで、外出の用意をし始めていた。

 うまくすれば、昼までにはつく。
 運が良ければ、在宅中かもしれない。

 最悪でも作業者宅への訪問を記録し、やれるだけのことはやったとのアリバイ作りになるだろう。そりゃぁもちろん、作業を再開させられるに越したことはないが、この様子なら本当になにひとつ手を付けていない可能性が高い。せめて、作業データだけでも回収できれば、いやそれは出過ぎたマネか。
 ともあれ、作業者宅を訪問する。
 そこで区切りにしよう。
 お世辞にも平坦とは言えないこれまでの道のりを思い返しつつ、ふと「どうせなら帰りに写真でも撮ろう」と、カメラも用意した。せっかくはじめての土地を訪れるのだから、そのくらいの楽しみはあっても悪くはないだろうと、そんな事を考えながらデジカメと予備のバッテリーを準備し、カメラバッグを肩に部屋を出た。

 ターミナル駅で環状線へ乗り継ぎ、そこからさらに別のターミナル駅へ。携帯で受信した特急券番号を発券機にタイプすると、当然のように乗車券やら特急券が出てくるのだが、根拠のない不安がよぎってしまう。
 発達しすぎたインフラは魔法じみてくると言うが、時代から取り残されつつあるおっさんにとっては「うさんくさいなにか」と表現したくもなる。ともあれ受け取った指定席券で乗車位置を確認し、スナックや飲み物、好奇心を刺激された燻製卵などを買い求めホームに立つと、やがて列車もホームへ滑り込む。カートを引いた観光客やスーツ姿の勤め人に混じって車内へ、さまざまな言葉のさえずりを浴びつつ指定された席を目指す。残念ながら通路側の席ではあるものの、こうした特急列車の雰囲気は旅情をかき立てるのに十分すぎた。
 さて、スナックでもつまみながらソーシャルネットをチェックしようかと、簡易テーブルを広げたところへ「あの」と声がかかる。
 見上げると、ほとんど巨漢と言ってもよいほど恰幅の良い中年男性が、滑稽なほど小さくかがんで申し訳なさそうな顔を寄せていた。
 舌打ちはもちろん、肩をすぼめたりため息をついたりもなし、落ち着いて簡易テーブルをたたみ、多少わざとらしくとも笑顔を作って「どうぞ、どうぞ」と立ち上がる。入れ替わって身体を押し込む中年男性がほわほわと発する汗と熱気を感じながら、彼が手にする大きなレジ袋へ目を奪われてしまう。
 男性は特急列車のゆったりしたシートへ巨大な尻をみっしり押し込むと、やたら嬉しそうに簡易テーブルを広げ、売店のロゴが変形するほど大きく膨れ上がったレジ袋から、サンドイッチにドリンク、お菓子にシュウマイの小箱まで次々に取り出し、卓上にならべ始めた。みるみるうちに、小さな簡易テーブルは食物と飲物で埋め尽くされ、売店のカウンタが引っ越してきたかのような体をなす。
 気がついたら、列車はとっくに動き出していた。
 ゴソゴソ、パリパリと車内アナウンスにかぶる開封音を聞きながら、自分はソーシャルネットのタイムラインに目を走らせる。普段は使っていないアカウントへログインして作業者のアカウントを検索、なにか動きはないかと読み進めたら、案の定というかなんというか、口汚く悪態をついている。まあ、即風呂された段階で罵詈雑言を浴びせられるところまではセットのようなものだが、問題はその回数と持続時間だ。俺から挨拶を受信した直後、おそらくはブロックとほぼ同時に悪態をつきはじめたのは予想通りだが、わずかに二言三言発しただけで、あっさりと終わっていたところが気にかかる。そして、罵った後はアニメの特典情報を共有しただけで、タイムラインそのものが静かになっていた。
 飽きて寝たか食事したか、あるいは第三者にたしなめられたか……?
 いちおう発言の閲覧数も確認したが、時間帯もあってほとんど閲覧されておらず、もちろん共有や「好き」も皆無だ。ただ、携帯端末では解析に限界があるので、いっそノート機でも引っ張り出そうかとすら考えたが、隣の男性があまりにも嬉しそうにサンドイッチを頬張っていて、流石に邪魔はまずいと思いとどまる。
 これ以上の解析は無理となったら、目的地まではスナックでも食べながらのんびりするくらいしかない。隣の男性にならって自分もスナックや飲み物、燻製卵を簡易テーブルへならべ、おもむろにペットボトルのキャップをひねる。さて、問題は濃厚チーズ味のカップ入りコーンスナックと、うずらのうま味しみしみ燻製卵のどちらを食べるかだが、ここはやっぱり燻製卵だな。
 卵の形そのままにぴっちり密着した真空パックに切れ目を入れたら、プシュッとふくれて茶色くつややかに可愛らしい玉が転がりでてくる。付属の爪楊枝でちょいとつつき、口の中へ放り込むと燻製の香ばしさによりそうほのかな甘味、そして出汁の旨味が景気よく広がり、舌の上で絡み合いながら卵と一緒に飛び跳ねる。はしゃぐ子供のような燻製卵を上顎で抑え、舌でゆっくり押しつけたらパンと弾けた。その瞬間、ほろほろと崩れながら津波のように押し寄せる黄身の味わいと、ちぎれ飛ぶ白身のかけらを時間をかけて飲み込み、フルーティーでスパイシーな褐色の炭酸飲料をひとくちすする。
 いやぁ、実に強い。
 これは欲を言えばぬるめのブラウン・エールか、氷入りホワイト・ラガーで食べたい強さ、それはもちろん酒のつまみとしての特性ではあるが、これからのことを考えるとビールというわけにもいかない。ところが、タイミングよくというか悪魔の誘惑というか、車内販売のワゴンがやってきた。
 この際、買ってしまおうか……。
 そんなよこしまな考えを見透かしたかのように、隣の男性が声を上げる。
 反射的に隣をうかがうと、簡易テーブルいっぱいに埋め尽くされていた食べ物は、既に半分ほど食い散らかされていて、パッケージやらなにやらが別の山をなしていた。おや、ここでさらにお菓子でも買うのかな?
 驚きを押し殺しつつ、顔も気持ちうつむき加減に、多少なりとも表情を隠そうと努力してみる。そこにすかさず「あぁ、すいません。ありがとうございます」の声。別に先回りして空間を開けたわけでもないのだけど、うつむき加減の頭上を携帯電話と決済音が交錯し、やがて温かい紙コップの気配がする。そっと頭をおこしたところへ待ち構えていたのは、物理的な意味でもあきれるほど大きく、そしてほがらかな男性の笑顔だった。
 内心ではビール欲を跡形もなく吹き飛ばしてくれたことへの感謝を織り交ぜつつ、どーもどーもと軽く会釈する。しかし、それにしても見事な食いっぷりと言うか、ついさっきサンドイッチに食後のおやつを平らげたばかりだろうに、今度はコーヒーとカップアイスだ。男性はコーヒーをひとくちすすり、ソーセージのようにプリプリと太くハリの良い指で小さなカップアイスを抑えると、ビニールカバーを慎重にはがす。そして木べらをカチカチのアイスへ突き刺そうと、分の悪い戦いを挑み始めた。
 凍てついた大地を耕す農夫のごとく力強く、しかし繊細に木べらで表面をつつく男性がアイスへそそぐまなざしはやさしく、やわらかく、そして口元には喜びが満ちあふれている。いい大人が、それもほとんど中年と言っても良いような男性が、子供のようにアイスと格闘するさまは、なかなかに微笑ましいものではあった。
 もちろん、いくら見たくなくても見えてしまう隣席の乗客とは言え、観るつもりで観るのは話が別だ。取り返しのつかない非礼をはたらいてしまう前に、俺はそっとまぶたを閉じる。
 出始めのホームサイズカップに憧れた子供時代、取り分けながらコマーシャルのようにスプーンでアイスがカールしないことへ無意味な寂しさを感じていた。そんな、ちょっとした悲しみが、なぜか不意によみがえってくる。こんなところでとりとめのない感傷にふけっていても仕方ないのだが、口いっぱいに広がっていた燻製卵の香りと入れ替わるように忍び込んできた特急列車の臭いから、特急の旅そのものが非日常だった頃の懐かしさとも嬉しさともつかぬ記憶を刺激されていた。
「これがコーヒーとアイスじゃなく、紅茶にマドレーヌだったら完璧だったか……」
 ほんの小さく独り言ちたつもりが、思いの外はっきりと口にしていたらしい。隣席の男性が「おひとつ、いかがです?」と、面白くて仕方なさそうに丸い日本式マドレーヌを差し出してくれた。
 個包装といえば聞こえは良いものの、四角いビニール袋の口を細めのセロテープで無造作にとめ、イタリックともなんともつかない斜めががった筆記体風味のブランドロゴをあしらったパッケージには、しっとりとふにゃふにゃしたきつね色の丸い焼き菓子が収まっている。これは紅茶に浸したらあかんやつやと、そんな思いも脳裏を駆け抜けたが、なんとか押し殺して「どうも、ありがとうございます」と微笑み返すことができた。
 いただいたマドレーヌの袋を開け、歯車状のギザが付いたグラシン紙を少しめくると、いまどき珍しいくらいに素朴でつややかな濃厚バターの香りが漂い始める。ひと口かじると、予想以上にもろもろと頼りない食感とともに生地は消え失せ、あとにはお世辞にも上品とは言えない、いやほとんど粗野と言ってもよいほど力強い甘味が居座っていた。
 こりゃほんとに紅茶が欲しくなるなと軽く眉をひそめながらも、ほとんど失われたかと思っていた味わいとの予期せぬ再開に、ただでさえ感傷的だった自分の気持が、ふわふわとしたマドレーヌのごとく崩れ、溶けていくようにさえ感じられてしまう。
 いかん、いかん。
 これじゃ、いただきものが口に合わなかったようではないか。
 男性が気づいていないことを祈りつつ、笑顔を作り直してもうひと口ほおばった。折よく車内販売の気配がしたので、ちょっと大げさに手を振り、ちょうど車両へ入ったばかりの売り子を呼び寄せる。隣席の男性へ「よければ、お礼に飲み物でも」と声をかけてはみたが、よく考えるまでもなく簡易テーブルにはさっきのコーヒーが残っている。カップへチラと眼差しを送りつつ「いえいえ、お気持ちだけで結構ですよ」と、年甲斐のない間抜けさを柔らかく流した男性の気遣いに感謝しつつ、やけに賑やかなキャッチコピーのコーヒーを注文した。

 特急に接続する各駅停車へ乗り継ぎ、最寄り駅に到着したのはお昼少し前だった。どちらかといえば高原といったほうが良い土地なのに、駅前のロータリーは海辺の彼女が住む街のそれとそっくりの作りで、風雨にさらされ続けサビまみれの『非核平和都市宣言』の看板に至るまでほとんどおなじ、しばしあっけにとられてしまう。
 目的地まであとわずか、しかしロータリーの向こう側に『うどん・そば・ラーメン・寿司・コーヒー』と大書されたボロボロの看板を見つけてしまい、好奇心をビリビリと刺激される。急いでなければ間違いなく突撃するところだが、今回はできるだけ昼前、遅くとも昼飯時までにアポなし訪問することが目的だった。
 下手に店の位置を確認しようものなら、自分の好奇心に歯止めがかからなくなってしまいそうな、そんな予感を抱えてタクシー乗り場へ向かう。運良く客待ちを見つけると、行き先の団地を告げた。かつては商店街と呼ばれていたであろうシャッターと廃屋がまだらに並ぶ通りを抜け、短い橋を渡ると斜面に広がる小奇麗な住宅地が見える。なだらかな坂を登るタクシーの車窓からみる風景は遠目の整った印象からほど遠い、裏寂れた戸建て住宅が雑草に飲み込まれつつある新興住宅街の成れの果てだった。
 ただ、人気のない通りを流していると、ところどころに記憶を刺激する、いやはっきりと懐かしさすら覚える家が目に入る。気にし始めると、街並みまでどことなく見覚えがあるような、そんな感情さえ湧き上がってしまう。
「はじめてきた場所なんだけどな」
「お客さん、どうかしました?」
 どうにもこうにも、今日は独り言がおさえられないらしい。中年に差し掛かるかどうかと言った風情の女性運転手が、心配げに声をかけてくれる。いつもなら曖昧に笑ってごまかすところだけど、流れに身を任せて話を引き受けてみよう。
「いや、ここには生まれてはじめて来たんですけど、どうも見覚えがあるような気がしてね。おかしなもんです」
 できるだけ苦味を抑えつつ、今度こそ曖昧な笑顔で終わらせようと思ったところ、意外な言葉が返ってくる。
「あぁ、前にもそういうお客さんを乗せましたよ」
 ふぁっ?
 出かかった頓狂声を鼻息でごまかし、飲み込みかかった息を押し戻すように「ど、どんなお客さんだったんです?」と、声を絞り出す。
「えぇと、ほんとはあまりお客の話はしちゃいけないんですけど、実家が鉄鋼業界の方だそうでね。生まれ育ったところが、ちょうどこんなところだったそうなんですよ」
「ほぅ。でも、どうして?」
「なんかね、高度成長期に会社が従業員向けの宅地開発までやったらしいんですよ。その関係で同じような街並みの住宅地があちこちにあるとか、そんな話なんですよね」
 わかったようなわからないような話だったが、それ以上はなにも聞き出せないまま、タクシーは目的地についてしまう。

 住所から古臭い公営団地のように思っていたが、通りに面した側はモダンで大きなマンションスタイルへの建て替え工事中だった。作業者の居住棟は奥まったところにあるので、板囲いの隙間を縫うように続く歩行者用通路へ足を踏み入れる。工事現場を抜けて裏へ入り、湿っぽくて日当たりの悪い広場を超えた先が、その棟だった。
 こちらも多少はリフォームされているのだろうか?
 中庭広場の古びた遊具よりは新しく見えるが、それでも新しいとは言えない建物の前に立ち、階段ホールの郵便受けにそれとなく目を走らせる。
 名前は、ある。
 郵便物等は回収されているようだ。
 つまり、俺がこれから訪れる部屋は、誰かが住んでいるということだな。
 軽く深呼吸して息を整えると、静かに階段を登り始める。
 エレベータは、ない。

 目指す部屋は四階の奥だった。階段室の他に出入口はあるのかどうか、確かめておけばよかったと思ったが、いまさらにもほどがある。途中で鉢合わせなどないようにと念じつつ、気がつけば部屋の前に立っていた。もういちど息を整えて、恐る恐るインターホンを鳴らす。いささか頭に血が上っていたとはいえ、自分で来ると決めたことなのに、なにをいまさらビビっているのやらと、おのれに苦笑しかかったところへ、スピーカーから女の声が響いた。
 え、女? それも声が若い。
 飛び上がらんばかりに驚いてしまったが、それでもなんとか発注者の名と用件を告げ、作業者を出すように頼む。しかし女はあっさりと当人の不在を告げ、そのまま通話を切ろうとした。
「ちょっとまってください、ほんとにこの部屋で間違いないですよね?」
「うん、パパちゃんの仕事でしょ? わかってる。でも、ちょっと前に出ていったから、しばらく帰らないよ」
 パパちゃん? 娘か? 子持ちとはおもってなかったが。
「まって、まって、じゃお母さんはいる? いたら変わってほ……」
 言い終わらないうちに、けたたましい笑い声が廊下いっぱいに鳴り響いた。
「あははははは! ごめんごめん、そういうんじゃないの。パパちゃんってもね。まぁ、相方ってわかる? そんな感じ」
 わかる、わかる、わかってる。いまのでだいたい全部わかった。
 ちぇ、いいな。よろしくやってるんだろうなと、瞬間的に湧き上がった羨望と嫉妬の熱泥流に足元をすくわれつつ、インターホンの小さな出っ張りへしがみつくように「わかったから、メモだけでもパパちゃんへ渡してくれないか」と懇願する。
 短い沈黙の後、わかったから少し待つようにと声がして通話は切れた。
 さて、メモを残すと言ってしまった手前、紙切れ一枚でも渡さなければならない。カメラバッグには手帳もいれたはずと、サイドポケットやらなんやらをまさぐっているところに重い鉄扉が開く。ドアチェーンの向こうに、まぁるい顔に丸メガネ、真ん中分けの小柄で小太りな若い女が姿を見せた。
「ちょっとまってくださいね、いまメモを探しますから」
「まって、まってって、まってが口癖?」
 下から聞こえるはずなのに上から話すようなアニメ声の軽口を聞き流しつつ、ようやくメモ帳を見つけ出すと、壁に押し当てボールペンを走らせる。ちぎってふたつに折った紙片を差し出しすと、意外な言葉が返ってきた。
「パパちゃんに渡すね。でさ、おじさんカメコだよね」
「え? あ、いや、ただの趣味だけど」
「趣味でそれはガチすぎるでしょ?」
 隙間から俺のカメラバッグをのぞき込み、やたらと嬉しそうにたたみかける。
「もしかして、ポトレも撮ったりする?」
 曖昧に笑ってごまかそうとしてみたが、そうする間もなく彼女の顔は引っ込み、中から「ちょっとまってて」と声だけが流れてきた。
 やれやれ、きょうはちょっとまっての日だな。彼女の前で口に出したら、あまりのおっさん臭さに顔をしかめられてしまいそうないくつかのセリフを脳内で消し、銀色のシリンダノブへ手をかけたまま扉を閉めたもんだかどうだか迷っていると、青紫のマーカーで縁取られた名刺やら便箋やらが現れた。
『夕月紫音 ゆふづきしいん』
 名刺にはふんにゃりした、おそらくは明朝ベースのデザインフォントでグラデ処理された名前とならべて、読み仮名も大きく表記している。あぁ、これは読み間違えたらえらいことなるやつやな。肩書は『コスプレイヤー・被写体・フェティッシュモデル』と、満貫やった。
「フライヤに撮影会スケジュール書いてるから来てね。は・あ・と」

 いま、口で発音したよな『は・あ・と』って……。

 懐かしさに締め付けられ、痛む胸の苦しみを押し殺し、どうにかこうにか「うんうん、わかった」とだけ返すと、チラシと名刺をていねいにしまう。別れ際、パパちゃんの立ち寄り先に心当たりはないかと訊ねたら、あっけらかんと個室ビデオへ行っただろうこと、むしゃくしゃするようなことがあったら「すりーでぃーぶいあーるえーぶいでぬく」ことまで、なぜか得意げに教えてくれる。
 反応に困ったまま、その場しのぎにもならない笑みを浮かべて「そうなんだ」とだけ答えたところへ「ほらさ、うちは家庭内エロ禁止だから」なんてますます受け答えしにくい話を振ってきた。
 こういうヲタ仕草は嫌いじゃない。いや、むしろ故郷の訛りを耳にするような心地よさすら感じるが、残念ながらいまはそんな話に付き合う時間もなければ、おそらくは後腐れなく話に付き合える相手でもなさそうだった。儀礼的な謝辞を返して扉を閉め、階段を降り始めると、なぜかふっと泣けてきた。
「ヲタクに生まれたおっさんやさかい♪」
 下手な替え歌を口ずさみながら、チラシのキャラやコスをチェックすると、どれもこれも微妙に古い。声を聞いた時は若いと思っていたが、このキャラ選択だと作業者よりも年上くらいかもしれない。あれは尻に敷いてる感じ、だよな。

 進捗管理とか、もうすっかりどうでもよくなってる自分に気がついた時、ふらりと見知らぬ土地へ旅に出たくなった。いやいやいやいや、その見知らぬ土地へ旅した結果がこのざまじゃないか。俺が向かうべきなのは、その反対だ。ひさしぶりに昔のふるさと、それも現実の故郷や実家ではなく、心の故郷、即売会やイベントなのだ。
 たとえそれが、時の流れに耐えられずに消え去った、幻のふるさとだったとしても。
 そんな事を考えながら、チラシの裏を確認していた。


ここから先は

0字

¥ 100

¡Muchas gracias por todo! みんな! ほんとにありがとう!