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そろそろ風呂に入らねば

ALPS処理水を海に放出する話を少しする。

放出して問題ないと言っている論。
原子炉デブリ(燃料棒)に触れた水とはいえ、優秀な国内企業が開発したろ過装置=「ALPS」によって、原発を稼働するにあたり、従来必ず海洋に放出していた冷却水よりも、低いトリチウム(放射性物質)濃度にすることに成功しているのだから、何も問題はない。
少なくとも、相対評価として、現在国内で稼働している他の原発の冷却水や、同様に中国やフランスの冷却水よりも、トリチウムの濃度は低い。
国際原子力機関(IAEA)もそのことは認めている。

放出してはいけないと言う論。
いくら「ALPS」でろ過しても、放射性物質は残り、問題とすべきなのはトリチウムではなく、セシウムやストロンチウムなどほかの放射性物質。
これらの放射性物質は、直接デブリ(燃料棒)に触れたからこそ発生していると考えられるもので、たとえトリチウムの濃度が高かろうとも、デブリ(燃料棒)に触れているわけではない冷却水よりも、危ない可能性がある。
人類史上、デブリ(燃料棒)に触れた水を海洋に放出したことがないことからも、予防原則(疑わしきは避けましょう)という概念の下、やるべきではない。
また、海に流さずとも気体化させたり、セメントで固めるという、人体に対して、より確実に害のない処理方法も存在する。

何故、海洋放出なのか――?に対しての推論。
海に流した場合のコストは、数十億円。
気体化した場合は、数百億円。
固体化した場合は、数千億円。
費用の問題から、海洋放出がベター。

個人的には、「海洋放出がよい」と言うなら、別にそれでいい。構いません。
事なかれ主義なので、100%の安全を期待していません。いや、「100%の安全を期さないと、居ても立っても不安でしょうがない」とは、思わないのです。

「処理水」か「汚染水」か、はたまた「冷却水」か(「冷却水」ということだけはないのですが)、何と呼称すべきか言葉の問題は大きいとする人は多いようですが、個人的にはどっちでもいいです。
「処理水」だって「汚染水」だし、「汚染水」だと言いながら、海に流してもいいと思っているので。

原則として、“生きるということは壊れるということ”であって、肩肘張らずに壊れながら生きていけばいいのではないか、と思っています。
明日も昨日も明後日も……、今日で1週間続けて……100点、100点、100点、100点、100点、100点!!――満点の健康であったりするものか?

出来る限り100点を目指すという気持ちはわかりますが、ALPS汚染水を海に流すことは、自分の感覚からは許容範囲内。
悪影響は、20年後、30年後……100年後、200年後に顕在化するかもしれない。としても、別に20年後、30年後……100年後、200年後の人たちに任せればいいんじゃないのかな。

取り立てて良心の呵責もなくそんなもんじゃないのかって、自然に思うのだけど。

100点なんて生まれた瞬間だけ。
小学生の時のドッジボールで、歪んだ指の形のまま数十年間放置しっぱなしだし(笑)。
生まれた瞬間から「100点じゃねーわ」という人もいるだろうし。

産業革命の功罪で今の地球温暖化があって、環境破壊は深刻だろ?
今、辛いだろ?
だから、未来の人ほど労らなければならないだろ?
と、言われても、「暑っちいな~」と言いながら、自分は昔の人を責めようとは思わない。

「生まれてきてしまった」ということ、 「いずれ死ぬ」ということ、「人類やる」ということは、そういうことなのではないのか。

ちなみに、専門用語や数字は間違っているかもしれません。ディテールは、各自で意訳しながら読んで下さい。
大枠は合っているはずなので(苦笑)。

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