還暦子⁺⁴

1959年生。昭和を30年、平成を30年生き還暦を迎えました。令和も30年生きるのかな…

還暦子⁺⁴

1959年生。昭和を30年、平成を30年生き還暦を迎えました。令和も30年生きるのかな? 子どもの頃や若い頃の思い出など、私自身が上の世代に聞きたかった何でもない日常のあれこれを綴っています。100回までは毎週土曜日更新しましたが、101回目からは毎月第一土曜日に新規更新します。

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000.目次

これまで毎週土曜日に投稿してきた記事の目次を作りました。タイトルの横に、主なエピソードの年代を入れました。記事の番号は各記事にリンクしています。尚、*印の記事は再録したものです。 247.* 80年代の結婚式(’80) 246*. 消え行くお葬式(全) 245. 妻の経済力(’60-) 244.* ケータイの前と後(’90-10) 243.* 春の予感(’70) 242.* 卒業式と恩師(’80) 241.*「お水取り」今昔(’90) 240. 子どもの頃の朝食(’60)

    • 247.80年代の結婚式

      6月と聞くと「ジューンブライド」、6月の花嫁を連想する方も多いと思います。ヨーロッパでは春の農作業が一段落し、天候も安定する6月に結婚すると幸せになるという言い伝えがあるそうです。 けれども私が自分の経験を振り返ってみると6月に結婚式に出席した記憶はなく、日本では梅雨時や暑い夏と寒い冬は避けて、大抵は秋または春に多くの結婚式が執り行われていました。気候条件が人々の儀式の時期に影響するのだと改めて思います。 今世紀に入ってからは、結婚式はしない、または婚姻届を提出してしばら

      • 246.消えゆくお葬式

        小学生の頃(1966年-1971年)私が初めて人の「死」に接したのは、小学2年生の時のことでした。近所の子どもが水に落ちて亡くなったのでした。 近くにあった用水路は普段水は通っていませんでしたが、2メートル四方ほどの一箇所だけが深くなっていて、そこにはいつも雨水が溜まっていました。子どもたちはみんなそこをタニシの池と呼んでいました。深さは子どものふくらはぎ程度の浅いものでした。当時はみんな半ズボンやをスカートをはいていたので、時々水の中に入って、タニシを取ったり虫を捕まえた

        • 245.妻の経済力

          私が子どもだった昭和40年代(1965年〜74年)、母の友人、今でいうママ友が家に遊びにきていて、あれこれよもやま話をしているうちに夕方となると「あら大変、もうこんな時間だわ、急いで帰らなくちゃ! うちの主人、お湯ひとつ沸かせないのよ」などといってそそくさと帰るという姿を何度も見てきました。 「うちの主人…」に続く言葉は、「お米ひとつとげないの」「おしょうゆがどこにあるのかも知らないの」など様々で、他にも「くつ下がどこの引き出しに入っているのかも知らないの」「洗濯物ひとつた

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          244.ケータイの前と後

          2022年3月31日をもってauの3Gサービスが終了しました。私が初めて携帯電話を持ったのは1996年(平成8年)暮れでしたから、25年と4ヶ月ほど前のことでした。一般の人々に携帯電話が普及し始めてからもう四半世紀以上も経ったのかと思うと、改めて感慨深いものがあります。 当時の携帯電話普及率は、1996年3月で約8.2%、1997年3月で約16.7%でした。有名なマーケティングの「キャズム理論」によれば、「普及率16%」を超えることが市場拡大にとって重要だと言いますが、今か

          244.ケータイの前と後

          243.春の予感

          ♫ 春の予感 そんな気分 時を止めてしまえば 春に誘われた訳じゃない だけど気づいて I’ve been mellow 〜 日差しが春めいてくると、私には毎年のように耳元でこの曲が聴こえてきます。この歌は、私が高校を卒業する1978年(昭和53年)の資生堂化粧品の春のキャンペーンの曲でした。作詞作曲は尾崎亜美、歌ったのは南沙織でした(Youtubeはこちら)。 高校の卒業式を前に私たち女子生徒は体育館に集められました。なにかと思ったら化粧品会社の社員が直接私たちに化粧の仕

          243.春の予感

          242.卒業式と恩師

          袴姿の女子学生を街中で見かけるようになりました。卒業式の季節です。昨年からほとんど大学にも通うことなくオンライン授業のまま卒業しなくてはならない今年の卒業生を思うと、心からおめでとうとは言えない複雑な気分になります。 それでも、これから社会へ羽ばたいていく卒業生の人生が充実したものになりますようにと願わずにはいられません。 ◇ ◇ ◇ 私が大学を卒業したのは、1982年3月、今から39年前の春のことでした。あの頃、大学の卒業式に袴姿で参列していた女子学生は少なくとも私の

          242.卒業式と恩師

          241.お水取り

          NHKスペシャル「東大寺修二会」先日、2021年5月30日(日)のNHKスペシャルは「疫病退散 千三百年の祈り〜お水取り・東大寺修二会〜」でした。ご覧になった方も大勢いらっしゃることと思います。番組は次のように紹介されていました。 私は1993年3月12日に、ひとりで奈良のお水取りのお松明を観に行ったことがありました。しかし、今回の番組を観ていたら知らないことばかりで、あの時の私は一体何を観に行ったのだろうかと自問自答するほどでした。私のお水取りの思い出は少しも神聖なもので

          241.お水取り

          240.子どもの頃の朝食

          私が育った家は、高度成長期の日本のいわゆる「一億総中流」の一軒、つまり、裕福でも貧乏でもないごく普通の(と少なくとも当の本人たちは思っていた)家でした。 私の家の朝食は、トーストとコーヒーでした。トースターで「きつね色」に焼いたトーストに小さな子どもの頃はバターを塗っていました。小学3年生になった頃、冷蔵庫から出してしばらくは硬くて塗りにくいバターに代わって、マーガリンが登場して一世風靡しました。 どの食品が体にいいとか悪いとかは、その時代時代によっておもしろいほど変遷し

          240.子どもの頃の朝食

          239.時の彼方のお雛様

          「親ばか」だと嗤いながら読んでいただきたいのですが、私は我が家のお雛様がこの世で一番美しいお雛様だと信じて生きてきました。細面の上品なお顔立ちに優雅な十二単衣を身につけたお雛様は、祖父母の家の床の間に緋毛氈を敷き詰めて飾られていました。 お内裏様とお雛様の背後には、金屏風ではなく、桜の透かし模様のある折り畳みの屏風があり、両脇には横にふっくらと膨らんだぼんぼりが飾られました。そしておふたりは、美しい縁取りのされた台座におひとりずつ座り、仲良く並んでおられました。 お内裏様

          239.時の彼方のお雛様

          238.不実な2月14日

          高校一年生の冬、自宅の電話が鳴って父が出ました。冬の土曜の午後でした。父は私の名を呼んで「同じ高校の人から電話だ」と取り次いでくれました。電話をかわると、初めて聞く名前の男子生徒が緊張した声で、私に「僕とつきあってください」と言ったのです。 聞けば、先日の漢字の追試の時に職員室の廊下で私を見かけ、とても素敵な女性だと思ったのでつきあって欲しいというのです。漢字の追試というのは、毎週月曜日の朝に簡単な漢字テストがあったのですが、その秋に私は右手に怪我をしてしまって三角巾で腕を

          238.不実な2月14日

          237.追悼・赤松良子氏

          2024年2月7日赤松良子氏の死去が報じられました(NHK・日経)。94歳でした。 男女雇用機会均等法の成立に尽力し、「均等法の母」と呼ばれた赤松良子氏が亡くなりました。赤松さんのたぐい稀な能力と行動力なくしては、日本に男女雇用機会均等法ができることはなかったか、あるいはできたとしても、それはあと10年か20年遅れていたことと思います。 私はこれまでに、このnoteにおいて赤松良子氏の活躍に何度か触れてきました。今回はこれまでに発表した内容を編集して、追悼の思いを込めて投

          237.追悼・赤松良子氏

          236.「太陽にほえろ!」と滅私奉公

          「太陽にほえろ!」は、1972年(昭和47年)7月21日から1986年(昭和61年)11月14日まで、金曜日午後8時から約1時間(54〜56分)、日本テレビで放送された刑事ドラマでした。番組平均世帯視聴率が40%(ビデオリサーチより)という今では死語になってしまった「国民的ドラマ」でした。 1972年7月21日といえば、私にとっては中学1年生の夏休みの初日に当たります。当時通っていた中学ではこの番組はすぐに大人気となり、「太陽にほえろ!」を見ていない子はクラスにひとりもいな

          236.「太陽にほえろ!」と滅私奉公

          235.祖母の海苔巻き

          毎年節分の頃になると、「恵方巻き」のノボリ旗がコンビニの前に立ち並び、スーパーのお惣菜コーナーにもずらりと恵方巻きが並びます。売れ残った恵方巻きが廃棄処分となるということも、社会問題となって久しくなりました。 私は恵方巻きを見かけるたびに、子どもの頃祖母が作ってくれた海苔巻きのことを思い出します。数々の祖母の手料理の中でも、とりわけ作り方の手順の記憶が鮮明なのがこの太巻なのです。祖母は海苔巻きと呼んでいました。 「さぁさ、今日は皆んなが揃ったで、海苔巻きしましょか」と、祖

          235.祖母の海苔巻き

          234.’80再就職活動

          1986年(昭和61年)夏の終わり、私は憧れのフランスから戻ってきて再就職活動を始めました。小学生の頃から夢にみていたフランス滞在は、あっという間の一年間でした。私なりにコツコツと貯めてきたお金は、出来るだけ見聞を広めたいと、フランスでほとんどすべて使い果たしてきました。 この時、私は27歳になったばかりでした。心の底の私の希望は、憧れの出版社でフランス語を使って日仏の書籍や雑誌を編集・出版したいというものでした。 ◇ ◇ ◇ 帰国して、まずは新卒で就職した会社に帰国の

          234.’80再就職活動

          233.ドラマ「黄色い涙」

          青春時代に見た思い出深いテレビドラマは数々ありますが、そのドラマによって自分の精神的骨格が作られたと言えるようなテレビドラマはそれほど多くありません。私にとってそんなドラマのひとつが1974年に放送された「黄色い涙」でした。この時、私は中学三年生、15歳になったばかりでした。 このドラマは、昭和49年(1974年)11月25日から12月20日まで、NHKの「銀河テレビ小説」という枠で、夜「ニュースセンター9時」という番組に引き続き、21:40〜22:00まで放送されていまし

          233.ドラマ「黄色い涙」