012.三億円の二千万円

子どもの頃、母が何かの用事で夕飯を作れない時や、父が出張でいない日などには、お蕎麦屋さんから出前を取ってもらえました。お客さんが来てお寿司や鰻重を取るのとは違って、お蕎麦屋さんのは普段着の出前でした。

メニューが印刷されている色のついた厚紙は、透明な下敷に入って電話台の脇にかかっていました。電話台には、出前メニュー以外にも、五十音順の電話番号帳があって、あかさたな…のタグのところを指で押さえて開けると、あ行、さ行の知り合いの電話番号が一覧で出てくるようになっていました。もちろん電話はダイヤル式の黒電話です。

そういえば、携帯電話が登場するまでは、親戚、友人、知人を始め、出前注文先や、よくかける相手の電話番号を何十個もそらんじていたものでした。さらに電話がなかった頃は、お蕎麦屋さんまで走っていって出前を頼んでいたというのを聞いて、私たちはなんて便利な時代に生きているのだろうと思っていました。

お蕎麦屋さんの出前メニューのトップは、「もり」「かけ」から始まり、「ざる」「きつね」「たぬき」「おかめ」「とろろ」「おろし」「なめこ」「鴨南蛮」「カレー南蛮」「天麩羅」などなど、定番メニューがずらりと並んでいました。お蕎麦かうどんを選ぶことができましたし、また温かい麺か冷たい麺かも選べました。

麺類だけでなく、「親子丼」「カツ丼」「天丼」「カレーライス」などのご飯物もありました。「チャーハン」もあったように記憶しています。「カツ丼」や「天丼」には、「上カツ丼」や「上天丼」もありました。のっているカツの肉質や海老の数が違っていたように思います。

私は蓋を開けるとグリーンピースが5個のっているカツ丼が大好きでした。夏には「冷やし中華」、冬には「鍋焼きうどん」も我が家の定番メニューとしてよく登場しました。

「ちわ〜! 三河屋で〜す!」と元気な声が聞こえると、我先にと玄関先に走り出て行くのは子どもたちの役割で、大人はあとからゆっくりとお財布を持って登場しました。

配達してくれる三河屋のおじさんは、近所の子どもたち皆んなから、親しみを込めて「三億円」と呼ばれていました。あだ名の由来は、もちろん1968年(昭和43年)に府中で起きた三億円事件です。犯人の手配写真の白いヘルメットと三河屋のおじさんがいつもかぶっている白いヘルメットが似ているというわけです。

三億円事件は、私が小学3年生の時の12月に起きました。それはそれは世間は大騒ぎになりました。この半世紀の間、日銀の計算に拠れば、消費者物価指数は4.2倍になったということですが、宝くじの最高当選金額は、1947年から一等はずっと100万円で、事件のあった1968年12月に1,000万円になったばかりでした。2019年の当選金は一等前後賞あわせて10億円ですから、物価は4.2倍でも、宝くじは百倍、千倍になったのでした。

当時は「百万長者」「一文なし」などという言葉が日常会話によく出てきました。庶民にとってのお金の単位は、せいぜい千万で終わっていて、億なんてものは特別な職業の人以外には天文学的な数字にすぎませんでしたから、実際の貨幣価値はともかく、当時の三億円の響きは今の三兆円くらいの衝撃がありました。

三億円事件は、暴力を用いず計略だけで現実離れした金額を強奪したことと、奪われた東芝社員への冬のボーナスは国外の保険会社によって速やかに支給されたこと、更に海外の保険会社と再保険契約があったことなどから、実際の被害金額2億9430万7500円の語呂合わせから「憎しみのない強盗」とも呼ばれていたそうで、犯人は憎むべき犯罪者というよりも、鼠小僧のように捉えられていたように思います。

三河屋さんの「三億円」は、地域の子どもたちの人気者でした。出前はどこの家の子どもにとっても楽しみで、「俺んち、昨日は三億円が来たんだぜ」などというと皆んなに羨ましがられていました。通学路で三億円の乗ったバイクと出逢って「あ、三億円だ〜」と手を振ると、三億円も子どもたちを目ざとく見つけて手を振り返してくれました。

仲良しの子の家で遊んでいたら、三億円が昨日の食器を下げにやってきて、そこの家の番犬が吠えないのを見て、その子が「三億円のこと家族だと思っているのよね、うちのポチ」と言っていました。

出前の食器は、水でさっと洗って玄関先に重ねて出しておくと、昼なら夜、夜なら翌日に三億円が回収に来てくれていました。お寿司も鰻重も容器は必ず回収されていました。プラスチック容器や使い捨ての概念そのものがない時代でした。

三億円は、配達の時は、白いヘルメットをかぶり、白い上着を来て、緑色をした器具を後部にぶら下げたバイクに乗ってやってきました。その器具は、バイクが傾いても揺れても汁物のお蕎麦やうどんの汁がこぼれないように、常に水平状態に保つ優れ物でした(画像はこちら)。今回調べてみたら、ホンダ・カブというバイクは出前仕様として開発されていて、ウィンカーは片手で操作できるようになっていたそうです。

もっと小さかった時は、お蕎麦屋さんは、自転車にまたがって片方の肩の上にお蕎麦のお盆を乗せ、それを片手で押さえながら器用に自転車を片手で運転をしながら届けてくれたり、あるいは、岡持ちを持って走って届けてくれたりしていました。中学生くらいになると、お蕎麦の容器をラップで覆うようになって、これなら絶対にこぼれなくて名案だなあと思ったことを覚えています。

あれから半世紀近くの月日が流れました。今も三億円はお元気に暮らしておられるでしょうか。あの頃はおじさんだと思っていましたが、意外と若かったかもしれません。というのは、小学4年生のとき、同級生に中学生のお兄さんがいた子がいましたが、私はその子のお兄さんとお父さんの区別がつきませんでしたし、別の友人の大学生のお姉さんとお母さんの区別もうまくつかなかったからです。子どもには大人の年齢を見定めるのは難しいのです。

もしかすると三億円は、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の六子たちと同じように1960年前後に金の卵として集団就職でやってきて、1970年頃には25歳くらいだったのかもしれません。もしもそうだとすると、今頃は70代の半ばくらいになっているわけです。

2007年に「消えた年金問題」が起きた時、真っ先に思い浮かべたのは三億円のことでした。果たして三億円は国民年金を払っていたのかしらと。当時は、大工さんや魚屋さん、床屋さんやお蕎麦屋さんような仕事に、弟子入りして修行をしていた人は大勢いました。あの頃、つましい生活の中で年金を払う余裕があったのでしょうか。

いつのまにか多くの人が3LDKの家に住んで高校や大学に行きサラリーマンになるのが「標準的な生き方」と思い込むようになりましたが、ついこの間までそんなことはありませんでした。

三億円は、あの頃子どもたちのヒーローでした。お蕎麦や丼ものと一緒に、私たちに小さな幸せを届けてくれていました。名前こそ勇ましい三億円ですが、老後に必要だと言われている二千万円はどうしているのでしょうか。

若い頃には気づきませんでしたが、還暦になると、大切な人というのは、親兄弟友人知人のみならず、この世に生まれてきた時に、この世界を構成していてくれたすべての人々が皆大切な人だと思うようになりました。

三億円の届けてくれたご飯を食べて大きくなった私は、真面目にコツコツと働き、地域住民に愛されてきた三億円のような人々が、安心して暮らせるような社会であってもらいたいと願ってやみません。


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