【2021年5月4日】根尾昴(中日)、プロ初本塁打が満塁弾/大先輩・杉下茂が放ったセ・リーグ投手初の満塁本塁打


根尾昴、プロ初本塁打が満塁ホームラン

中日ドラゴンズの根尾昂は5月4日、横浜DeNA戦(バンテリンドームナゴヤ)で「8番・左翼」で先発出場すると、3回の第2打席でプロ初本塁打となる1号満塁弾を放った。

中日が4-3で迎えた3回1死満塁、根尾がこの日、2度目の打席に立つと、DeNA先発の大貫晋一が投じた2ボールの後の3球目、142キロのストレートを叩き、打球は右中間へ。これがライトスタンドの最前列に飛び込んだ。根尾にとって通算36試合、105打席目で生まれたプロ初アーチはグランドスラムとなった。

根尾昴は大阪桐蔭高校で投手兼遊撃手として4季連続で甲子園出場、そのうち3度の優勝に貢献すると、中日から2018年ドラフト1位指名を受けて入団した。プロ3年目を迎えた今シーズン、広島カープとの開幕戦(マツダスタジアム)に「8番・レフト」で先発出場し、自身初の開幕スタメンを勝ち取った。
その後も、レフトでのスタメン起用が続き、守備では随所によいプレーが見られたが、打撃のほうは打率1割台を低迷していた。ただ、4月27日の阪神戦(バンテリンドーム)では、西勇輝からプロ入り初の二塁打を放ち、4月30日には巨人戦(東京ドーム)では菅野智之からも二塁打、5月3日のDeNA戦では山崎康晃からプロ初の三塁打も記録するなど、打撃も確実に上向いていた。

中日の選手で初本塁打が満塁本塁打というのは、1970年にバビー(本名:ジム・バビエリ)が4月12日の巨人との開幕戦(後楽園)で記録しているが、中日の日本人選手で、プロ初本塁打が満塁本塁打というのは、1950年の杉下茂以来である。

1950年、杉下茂が放った投手初の満塁本塁打

1950年4月21日、佐賀県鹿嶋市の「祐徳国際グラウンド」では、西日本パイレーツが中日ドラゴンズを迎えて、プロ野球初の公式戦が開催された。

昭和に入ると、全国の神社は、野球場の建設を推し進めていた。まず、1926年に東京・明治神宮が「明治神宮野球場」、1928年には豊川稲荷が「豊川いなり外苑球場」、1934年には札幌神社(現在の北海道神宮)が「札幌市円山球場」を建設し、佐賀県の祐徳稲荷神社が1935年4月に「祐徳国際グラウンド」を開場した。
祐徳稲荷神社は、京都・伏見、茨城・笠間とともに「日本三大稲荷」に数えられる神社である。佐賀県では杵島郡大町町の杵島炭鉱グラウンド(現・大町町民グラウンド)に次ぎ、県内2番目の専用野球場として誕生した。

この試合の主催である西日本パイレーツはこの年、二リーグに分裂した際にセントラル・リーグに加盟、誕生した新設球団で、親会社に西日本新聞社を持つことから事務所を福岡に、本拠地を平和台球場に構えていた。この日は同じ九州・佐賀での興行となったが、同グラウンドでのプロ初の公式戦にもかかわらず、観衆はたった1000人程度だったという。

この日、中日の先発は、プロ2年目、24歳の杉下茂だった。杉下は明治大学から中日入りすると、プロ1年目の1949年には右肩の痛みで思うような投球ができないながらも、当時はまだ珍しいフォークボールを武器に、先発・リリーフで29試合に登板して、8勝12敗、防御率3.66というまずまずの成績を残した。プロ2年目も、開幕からこの日までにすでに3勝(1敗)を挙げていた。

杉下は西日本打線を5回まで無失点に抑え、迎えた6回表の攻撃、二死満塁で打席に入った。西日本の投手は、先発の林茂から、新人のアンダースロー投手、野本喜一郎に代わっていた。
野本はこの年、社会人のコロンビアから西日本に入団したが、3月22日のプロ初先発した中日戦では杉下と投げ合い、3失点で完投したが敗戦投手となっていた。
杉下は打撃センスもなかなかのもので、この日までシーズン打率は5割を超えていた。
杉下は野本のボールを叩くと、両翼91.5mほどの距離があったというレフト線のポール際に飛び込んだ。そして、これが、セントラル・リーグ初、投手による満塁本塁打となった(一リーグ時代から数えると史上5人目)。

杉下は自らの援護で気を良くしたか、その後も危なげない投球を続け、終わってみれば、9回を投げ切り、西日本打線を被安打4、奪三振3、1失点で抑えて完投し、中日が12-1で勝利を収め、杉下は4勝目を挙げた。
この試合では、4本のホームランが飛び出したが、いずれも中日の打者によるもので、杉下とバッテリーを組んだ「6番・キャッチャー」の野口明も2本、「3番・ファースト」の西沢道夫も1本のホームランを放った。

杉下茂、NPB史上4人目の「投手5冠」、史上初の「沢村賞」3度受賞

その後、杉下の右肩の痛みは癒え、1950年のシーズンは55試合登板で27勝(15敗)、防御率3.20、そして、209奪三振でセ・リーグの最初の奪三振王となった。
しかも、杉下はこのシーズンから6年連続で20勝を挙げ、プロ3年目の1952年には最多勝と沢村賞のタイトルも手にした。1954年には32勝、防御率1.39で当時、史上4人目となる「投手5冠(勝利数、最高勝率、防御率、奪三振数、完封数)」も達成したが、その後も、投手5冠を達成したのは杉浦忠(南海)、江川卓(巨人)、斉藤和巳(ソフトバンク)しかいない。
同時に、史上初となる3度目の沢村賞も受賞した。

杉下茂は1957年にはNPB史上7人目の通算200勝を挙げると、1959年から1960年までは兼任監督に就任した。
監督としては2位、6位という戦績だった。
中日の監督辞任後、1961年に大毎オリオンズで現役復帰し、3年ぶりにマウンドに上がったが、この年で現役生活にピリオドを打った。
実働11年で通算215勝、防御率2.23。
現役引退後は中日、阪神の監督、巨人、西武の投手コーチも歴任した。
コロナ禍前までは毎年、中日の春季キャンプに臨時コーチとして姿を見せていた。
現在、95歳にして尚、ご健在である。

尚、NPBでは投手による満塁本塁打は現在まで17人が19度、記録している。
最近では、藤浪晋太郎(阪神)が2018年9月16日のDeNA戦(横浜スタジアム)に先発登板し、3回に自ら満塁本塁打を放って、勝利投手になっている。

西日本パイレーツはその年、セ・リーグの首位・松竹ロビンスから48.5ゲーム差を離された7位の成績に終わり、最下位こそ免れたが、経営不振からパ・リーグの西鉄クリッパースとの合併を選び、西鉄ライオンズが誕生した。
祐徳国際グラウンドはその後、プロ野球2度目の公式戦として、1952年4月1日に、西鉄ライオンズ対阪急ブレーブス戦が開催されたが、それを最後に公式戦開催はなくなり、数年後に消滅したという。

杉下茂に一発を浴びた野本喜一郎は、浦和学院を甲子園に導く

尚、杉下に手痛い一発を浴びた投手・野本喜一郎は、この年、新人ながら48試合に登板し、11勝19敗、防御率4.38という成績であったが、その後、西鉄、近鉄と渡り歩き、4年間のプロ生活で通算18勝27敗、防御率3.62という成績を残して現役引退した。
引退後、地元の埼玉に帰ると、上尾商業(現・上尾高校)の野球部の監督に就任し、山崎裕之(ロッテ、西武)、会田照夫(ヤクルト)、仁村徹(中日、ロッテ)らを育成し、春・夏それぞれ3度の甲子園出場に導いた(途中、東洋大学の監督も務めた)。
その後、浦和学院の監督に就任、鈴木健(西武、ヤクルト)らを擁し、1986年の夏の甲子園出場を決めたが、体調が悪化、監督を辞すと、甲子園の土を再び踏むことなく、その年の8月に64歳で亡くなった。奇しくも夏の甲子園の開幕の日であった(その大会で浦和学院は準決勝まで進み、ベスト4に入った)。

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