【追悼】八代亜紀さん/巨人・王貞治の約束の846号ホームラン

歌手の八代亜紀さんが昨年2023年12月30日に亡くなっていたことが公表された。

八代亜紀さんといえば、1970年代からハスキーボイスで「演歌の女王」となり、かつては紅白歌合戦の常連であったが、近年はジャズや歌謡曲、J-POPのカバーに取り組むなど精力的に活動を続けており、2021年には歌手活動50周年を迎えていた。

しかし、八代さんは昨年9月、膠原病の一種である難病指定の抗 MDA5 抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症したことを公表し、歌手活動を停止して治療に励んでいたが、12月下旬、容体が急変し、12月30日に還らぬ人となったという。

八代さんは音楽活動以外に、絵画にも才能を発揮、フランス画壇の登竜門「ル・サロン展」の永久会員に選ばれるなど、多芸な一面を見せる一方で、被災地へのボランティア活動や刑務所への慰問活動にも力を入れ、全国を廻った。

八代さんも野球と浅からぬ縁がある。
それは王貞治との交流である。

1979年オフ、王貞治と八代亜紀の「約束」

「八代亜紀」こと橋本明代は1950年8月29日、熊本県八代郡金剛村(現在の八代市)に生まれた。
幼い頃から歌うことが大好きで、ハスキーボイスの明代は歌手になることを夢見ていた。
中学卒業後、地元のバス会社に就職し、バスガイドを務めていたが、父親の反対を押し切って上京、18歳で念願のクラブ歌手となった。

1971年、「八代亜紀」という芸名で「愛は死んでも」でレコードデビューを果たした。
苗字の「八代」は出身である「八代」(やつしろ)から取り、名前の「亜紀」は本名の明代から取り、「アジア(亜細亜)で何世紀も活躍できるように」という願いが込められたものだった。
1973年、「なみだ恋」が120万枚を超える大ヒットとなり、一躍、スターダムへとのし上がった。

1979年5月25日、シングル「舟歌」をリリースした。
これまで女心をうたってきた八代だったが、この歌の作詞は当代きっての作詞家・阿久悠が手掛け、男の視点で書かれたものだ。
「お酒はぬるめの燗がいい」「肴はあぶったイカでいい」という歌詞が八代のハスキーボイスと相俟って、歌手・八代亜紀を代表する一曲となった。

その年の暮れ、第21回日本レコード大賞・第10回日本歌謡大賞にノミネートされ、日本レコード大賞は「金賞」、日本歌謡大賞は「放送音楽賞」を受賞した。

ちょうどそのころ、八代は、フジテレビの人気テレビ番組の「スター千一夜」のパーティーに出席した。
そのパーティーには同番組では常連の出演者であったプロ野球界のスーパースター、読売ジャイアンツの王貞治も出席していた。

王貞治は1977年9月3日、ヤクルトスワローズ戦で通算756号本塁打を放って、「世界のホームラン王」となり、「国民栄誉賞」の第1号を授賞した。
1978年8月30日の大洋ホエールズ戦ではシーズン34号本塁打を打ち、NPB史上初の通算800号を達成、9月22日の対中日ドラゴンズ戦でシーズン38号本塁打を打って、NPB史上初の2000打点を記録するなど記録ラッシュに沸いた。
この年、王は8年連続となる打点王のタイトルを獲得したものの、ホームランは39本に終わり、セ・リーグ本塁打王のタイトルは44本塁打を放った広島カープの山本浩二に明け渡した。

迎えた1979年のシーズン、王は開幕から低調だった。
4月を終えて、打率.245、ホームランは3本。
5月を終えても、打率.260、9本塁打。7月を終えても、打率.269、17本塁打と、7月末時点で広島の山本浩二と阪神の掛布雅之に本塁打数で7本の差をつけられていた。
結局、このシーズン、王は打率.285、33本塁打、81打点に終わり、ホームラン王は阪神の掛布雅之が48本塁打で獲得した。1962年に一本足打法に切り替えて以来、初めて打撃主要タイトルを1つも取れずに終わった。

長嶋茂雄監督が率いるジャイアンツは前年1978年オフのドラフト会議直前、その前年のドラフト会議で、クラウンライターライオンズからの1位指名を拒否した江川卓と契約を結ぶと電撃的に発表し、「空白の一日」事件として大騒動を巻き起こしたが、江川の交換相手となった阪神・小林繁を相手に8連敗を喫するなど、リーグ5位に沈み、2年連続のV逸となった。

パーティーの席上、八代は10歳年上の「世界のホームラン王」に向かって、無邪気にこう尋ねた。

「王さん、846号ホームランを打つのはいつ頃になりますか?」

勿論、「846」とは『やしろ』の語呂合わせである。
王はニコニコと笑いながら、八代にこう答えた。

「来年の5月ごろですかね」


王は1979年シーズン終了時点で、838本塁打を放っていた。
通算846号となると、残り8本である。
1980年シーズンの公式戦の試合日程を見ると、開幕から5月末までに40試合弱が組まれていた。

王が1979年シーズンに放ったホームラン数が33本であることを考慮すると、1980年5月中に十分に到達可能な数字ではあった。

だが、この年、王は5月に40歳を迎え、年々、成績は下降気味であった。

1980年、開幕から打ちまくる王貞治

ところが、迎えた1980年のシーズン、王は40歳の誕生日を前に、開幕から鬼神のように打ちまくったのである。

4月23日、平和台球場で行われた対ヤクルトスワローズ戦で、王はシーズン7号ホームランを放ち、通算845号を記録すると、846号に「王手」を懸けた。
まだ開幕して13試合目であり、「シーズン70本」ペースである。
打率も.341をマークしていた。

八代との「846号本塁打達成」の約束は「5月頃」だったが、その達成はもはや時間の問題であった。

しかし、王の好調さとは裏腹に、巨人はこの年、開幕3連敗を喫するなど、開幕ダッシュに失敗、4月を終えて6勝7敗と今ひとつ、波に乗れていなかった。

そして、王が7号ホームランを放ってから、5試合、パッタリと快音が聞かれなくなったのである。
八代亜紀との約束が王の頭の片隅にあったのだろうか。

1980年5月3日、王貞治が本拠地・後楽園で八代亜紀との「約束の一発」、846号ホームラン

そしてゴールデンウイーク真っ最中の5月3日の「憲法記念日」、後楽園球場での大洋ホエールズ戦を迎えた。

この日のデーゲーム、後楽園球場には5万人に観衆が詰めかけ、甲子園球場への遠征を終えた巨人ナインを待ち受けていた。

大洋の先発は32歳の右腕の平松政次であった。
平松は大洋のエースとして前年は防御率2.39で自身初の最優秀防御率のタイトルを獲得、しかも13勝7敗で11年連続シーズン二けた勝利を続けていたが、この年は4月を終えて2勝1敗、防御率3.97とやや物足りない成績であった。

対する巨人の先発・西本聖は23歳で、前年、先発とリリーフの両輪で44試合に登板、8勝4敗6セーブ、初めて規定投球回数に達して防御率2.76でリーグ2位、ダイヤモンドグラブ賞を受賞と躍進した。
この年は1歳年上の2年目の江川卓に開幕投手は譲ったものの、開幕ローテーション入りを果たし、4月は防御率1.13、3勝1敗とチームの勝ち頭となっていた。
だが、この日の両先発の出来は対照的だった。
西本は打撃好調の大洋打線につかまり、2回途中で5失点KOを食らった。
続いてマウンドに上がった加藤初も不調で、7番・田代富雄と1番・長崎啓二にホームランを浴びるなど、4失点と精彩を欠いた。
一方の平松は巨人打線を5回まで被安打3、無失点に抑える好投を見せた。
5回を終えて、巨人は0-10と不甲斐ない試合になった。

6回裏、巨人の攻撃で、ノーアウトで二塁に淡口憲司、一塁に中畑清の二人の走者を置いて4番の王に打席が廻った。
どんなに試合が劣勢でも、ファンから王には熱視線が注がれる。
王は平松のスライダーを捉えた。見逃せばボールの高さである。

打球は後楽園球場のライトスタンドを目掛けて飛んで行った。
ホームランダービーのトップで並んでいた広島の衣笠祥雄の7本を追い越す、シーズン8号ホームラン、通算846号が飛び出した。

その後、7回裏に、巨人は大洋2番手の遠藤一彦から3番・中畑清がシーズン5号2ランホームランを放ち、追撃したが、結局、試合は6-10で巨人が敗れた。
巨人は勝率5割を割り、単独4位に転落した。

試合後、王は、自身のホームランを淡々と振り返った。

「詰まったんだけど、あそこまでよく飛んだな」

しかしながら、王がホームランを打った8試合で、チームの成績は3勝5敗。

「チームが勝たなくては何にもならないよ。投手ががんばっているときに打てないで、(ホームランが)出るのはこんな試合ばかり。
いまは忍の一字だな」

王はそう口にしたが、ゴールデンウイークを利用して試合を観戦しに来たジャイアンツファンにとっては王の一発がせめてもの救いであった。

そして、王は見事に八代への約束を「有言実行」した。
後日、通算846号本塁打を放ったバットにサインを添えて、八代にプレゼントした。
感激した八代はそのお礼に、王貞治がバットを構えた姿を絵に描き、王に渡したという。

1980年、八代亜紀は「雨の慕情」が大ヒット、王貞治は現役引退

八代亜紀はこの年、4月25日に「雨の慕情」をリリースした。
「雨々降れ降れ もっと降れ」という歌詞とともに、八代が歌いながら手のひらを上に向けてあげるポーズをするのが、およそ演歌とは縁遠そうな子供の層にまでウケ、この歌は世代を超えてまたたくまに大ヒットとなった。
この歌は歌謡曲やアイドルが主流だったTBSの人気歌番組「ザ・ベストテン」にもランクインし、八代は自身初にして唯一の出演を果たした。

一方、長嶋茂雄が引退後、王が選手のリーダーとして率いてきた巨人はリーグ3位に終わり、3年連続でリーグ優勝を逃した。

王自身も、本塁打30本を放ったものの、打率は規定打席に到達した打者でリーグ最低の打率.231。
衰えは明らかだった。

そして、ジャイアンツはシーズン終了後、10月21日に「ミスタージャイアンツ」である長嶋茂雄が監督を「辞任」するという大激震に見舞われた。
後任の監督は、巨人のOBで元投手の藤田元司となった。

さらに、長嶋と「ON」を形成してきた王も11月4日、現役引退と助監督就任を発表。
王は引退する理由を、「口はばったい言い方だが、王貞治としてのバッティングができなくなったからです」と答えていたが、長嶋が監督辞任を発表した直後は、来季への現役続行を意欲を燃やしていた。

引退を決めた王は11月16日、熊本の藤崎台県営野球場で行われた、阪神タイガースとの秋季オープン戦に出場した。
この試合は、オープン戦としては異例のテレビ中継があり、全国に放送されていた。

5回裏、巨人の攻撃で王が迎えた第3打席、阪神の投手である宮田典計と対戦すると、王はカウント2-1からの内角のストレートを捉えると、ライトスタンド中段にアーチをたたき込んだ。

王がダイヤモンドを一周し、三塁ベースを蹴ったところで三塁側の阪神のベンチから選手たちが飛び出し、王に駆け寄った。
王は長年のライバルであったタイガースナインの1人ずつと握手を交わした後にゆっくりホームインした。
これが王にとって正真正銘、現役最後の打席で、最後の本塁打となった。
プロ入りして、ジャイアンツのユニフォームを身にまとってから公式戦で放った868本塁打に加え、通算1032本目となるアーチだった。

日本シリーズ 29本(77試合)
オールスターゲーム 13本(58試合)
日米親善野球 23本(107試合)
春季オープン戦 85本(349試合)
秋季オープン戦 13本(79試合)
東西対抗 1本(4試合)
国外オープン戦  0本(31試合)

王が最後の一発を放った地・熊本は八代の故郷でもある。
この日、藤崎台球場に集まった2万6000人の観衆は僥倖としか言いようがない。

八代亜紀は「レコード大賞」受賞、紅白で2年連続の「大トリ」

一方、野球界に激震が走った1980年の暮れ、八代は「舟歌」の大ヒットで、第22回日本レコード大賞では「大賞」、第11回日本歌謡大賞でも「大賞」、第6回日本テレビ音楽祭も「グランプリ」と、賞レースを総なめした。
そして、大晦日の「第31回NHK紅白歌合戦」では2年連続の”大トリ”でこの曲を歌った。八代はこの年、30歳を迎え歌手として絶頂期を迎えた。

八代は女性演歌歌手としてレコード・CDの売上トップ、紅白23度出場

王貞治が世界のホームラン王なら、八代は女性演歌歌手としてレコード・CDの売上トップという金字塔を打ち立てた。

八代は紅白歌合戦には通算23度、出場し、2001年を最後に出場から遠ざかっていたが、2013年に、初めて本格的に取り組んだジャズ・アルバム「夜のアルバム」をリリース、2013年にはLOUD PARKで、ギタリストのマーティ・フリードマンと共演したり、2016年にFUJI ROCK FESTIVAL(フジロック)に出演したりするなど、幅広い年齢層と音楽ファン層にもその歌声を届けた。

2023年3月に出演した、テレビ朝日系の「徹子の部屋」では「100歳まで歌えます」と笑顔で話していたが、それはかなわなかった。

八代亜紀さん、安らかにお眠りください。









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