NPB新人開幕戦本塁打第1号:村瀬一三

横浜DeNAベイスターズの新人・度会隆輝が開幕から大暴れしている。

3月29日、開幕戦となった本拠地・横浜スタジアムでの広島カープ戦、「1番・ライト」で先発出場すると第2打席で同点となる3ラン本塁打をライトスタンドに放った。
この日は4打数1安打、3打点で、DeNAの5年ぶり開幕戦勝利に貢献した。

続く3月30日、度会はこの試合も「1番・ライト」で先発出場したが、1回裏、先頭打者として迎えた第1打席で頭部に死球を受けるアクシデントに見舞われた。
影響が心配されたがプレーを続行すると、プロ初盗塁となる二盗を決めた。
第2打席でレフト前ヒット、第3打席ではライトスタンドに2ラン本塁打を放った。
第4打席はライトへ二塁打、第5打席はサイクル安打の期待も懸かったが、センター前ヒット。
4打数4安打、2打点、1四球で、DeNAは本拠地では24年ぶりの開幕2連勝となった。

NPBで1リーグ時代を含めて新人が開幕戦で本塁打を放ったのは度会隆輝が14人目である。
そして、新人が開幕から2戦連続本塁打となると、1955年の枝村勉(大映スターズ)、1981年の石毛宏典(西武ライオンズ)以来となり、セ・リーグでは初の快挙となった。

では、「新人開幕戦本塁打」の第1号は誰なのか。


1938年4月29日 村瀬一三(名古屋軍)

日本で職業野球が始まって3年目となる1938年は全8チームで春・秋のシーズンに分けて行われ、春シーズンは4月29日に開幕を迎えた。
まず、東京・後楽園球場で名古屋軍対名古屋金鯱軍、イーグルス対東京セネタースの2試合が変則ダブルヘッダーで行われた。
当時はまだフランチャイズ制ではなく、名古屋のチーム同士が東京で試合をするという、いまでは起こりえない対戦だった。

現在の中日ドラゴンズの前身にあたる名古屋軍は1936年に創設され、3年目のシーズンを迎えていたが、この年、唯一の新人として入団したのは、村瀬一三という20歳の若者であった。
村瀬は164cm、60kgと小柄であったが、地元・旧制享栄商業(現・享栄高校)でセンバツ大会に出場したことがある内野手で、名古屋軍は1937年オフに、内野手の小阪三郎、芳賀直一、南里政男が退団し、内野手不足に陥ったため、村井は名古屋軍に入団して背番号「8」を着けることになった。

村瀬は開幕戦、「9番・ショート」で起用された。
3回表、名古屋軍は名古屋金鯱軍先発の鈴木鶴雄を攻め立て、5-1とリードを奪うと、走者1人を置いて、9番の村瀬に打順が廻った。
村瀬は後楽園のレフトスタンドに叩き込む一発を放ち、名古屋軍が7-1と突き放した。

これが日本の職業野球における「新人による開幕戦本塁打」の第1号となった。
当時、職業野球の公式戦で使用されているボールは粗悪品で、打球は容易には飛ばない。
1938年春シーズンで本塁打王はイーグルスのバッキ―・ハリスで6本。
名古屋軍が35試合を戦って、チームで放った本塁打はわずか5本であり、いかに貴重な一発であったかがわかるだろう。

試合は名古屋軍が7-2とリードして終盤に進んだが、7回に金鯱軍が2点を返し、7-4となって、最終回を迎えた。
ところが、名古屋金鯱軍は四球と相手のエラーで2点を返し、6-7と詰め寄ると、2死から走者を2人を置いて、8番の瀬井清がセンターオーバーの大飛球を放ち、三塁に到達する間に、走者2人が還った。
名古屋金鯱軍が9回裏に一挙4点を挙げ、8-7と大逆転勝利を挙げた。
いまでいう「ルーズベルトゲーム」である。
村瀬の一発は空砲となった。

1938年春季リーグ、名古屋軍は35試合を戦い、11勝24敗で8チーム中、7位に沈んだ。

村瀬は全35試合に出場し、打つほうは打率.152、1本塁打、11打点という成績で、守ってはショートで失策22個。
1939年には打率.208ながら、28盗塁を記録したが、盗塁王の山田伝(阪急軍)の30個には2個、及ばなかった。
1940年は104試合に出場し、3本塁打を放ち、22盗塁を記録したが、打率.188、リーグ最多となる78三振と打撃の粗さは解消せず、ショートの守備でも失策54個と精彩を欠いた
(ただし、この年の最多失策はセネタースのショート、柳鶴震で75個であった)

村瀬は1941年のシーズン、新人の石丸進一(登録は投手)、木村進一(のちの西村進一)にショートのレギュラーを奪われ、シーズン途中に阪神軍に移籍し、背番号「2」を着けたが、ここでもレギュラーにはなれなかった。

村瀬一三は太平洋戦争が激化した1942年初頭に徴兵され、その後、戦死した。
戦死した詳しい時期は不詳である。
プロ生活4年間で通算301試合に出場、打率.190、7本塁打、75打点、61盗塁であった。
名古屋軍で村瀬を控えに追いやった石丸進一も特攻隊として戦死し、映画「人間の翼 最後のキャッチボール」のモデルとなった。
もう一人の木村進一も戦場で右手首を失ったが、生存して帰還し、戦後、母校の平安高校(現・龍谷大平安)の野球部監督として1951年の夏の甲子園大会で全国制覇を成し遂げた。

村瀬一三より後に新人が開幕戦で本塁打を放ったのは度会隆輝まで7人いるが、高卒新人は村瀬を置いて他にはいない。

そして、彼の魂は彼自身が歴史に残る一発を放った場所に還ってきた。

村瀬一三の名前は、東京ドーム敷地内にある「鎮魂の碑」に、沢村栄治、石丸進一など戦前・戦中に野球に関係した戦死者167名と共に刻まれている。
1981年、当時のセントラル・リーグの鈴木龍二会長が発起人となり、当時のコミッショナーの下田武夫をはじめ、有志の協力を得て、「鎮魂の碑」が1981年4月に旧・後楽園球場脇に建立され、1988年3月に東京ドームの完成と同時に、現在の場所に移設されたものである。

第二次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵(せんじん)に散華(さんげ)した選手諸君の霊を慰めるため、われら有志あいはかりてこれを建つ。
有志代表 鈴木龍二


度会隆輝の歴史的な一発が、村瀬一三への手向けになればと思う。

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