【来日記念】Billy Joelの歌に登場するメジャーリーガー

アメリカを代表するシンガーソングライターである、ビリー・ジョエル(74歳)が16年ぶりに来日公演を行った。

1月24日、東京ドームで行われた1日限りの公演には44000人が訪れた。


ビリー・ジョエルはヤンキースファンなのかメッツファンなのか?


ビリーは1949年、ニューヨーク・ブロンクス生まれの生粋のニューヨーカーであり、大の野球ファンである。

では、ビリーの推しはブロンクスに本拠地を持つニューヨーク・ヤンキースなのか、それとも、ロングアイランドに本拠地を持つニューヨーク・メッツなのか?

実は彼は明言していないのである。

ビリーは1990年に、旧ヤンキースタジアムでライブを行っている。

2002年オフにヤンキースに入団した松井秀喜も、ビリーの大ファンであり、打席への登場曲では、ビリーの曲”Big Shot", "Pressure”を使用していた。

2006年にはビリーが松井秀喜にメッセージを寄せたこともある。


一方、ビリーは2008年の7月16日と18日には、ニューヨーク・メッツの本拠地であったシェイスタジアムが取り壊しになる前に最後となるライブを行っている。
ビリーはブロンクスで生まれた後、メッツの本拠地に近いロングアイランドで育った。

ビリーは、観客に向かって、こう尋ねた。
「この中で、ヤンキースファンは?」
「この中で、メッツファンは?」
「まあ、どっちでもいいよな」


果たして、ビリー自身はどうなのか?
彼が書いた曲の歌詞にヒントが隠されている。

Zanzibar (1978)

ビリーは当然、「野球」をネタにした曲も書いている。

"Zanzibar"という曲は、アフリカのタンザニアにある地名のサンジバルを歌ったものではなく、"Zanzibar"という名前のスポーツバーについての曲だ。
1978年10月にリリースされた彼の通算6作目のアルバム"52nd Street"に収録された。
このアルバムは、"Honesty", "My Life"などのヒット曲も生み出し、名盤との誉れが高い。

1番の歌詞には、ボクシングの世界チャンピオンであるモハメド・アリが登場するが、2番の歌詞には、あのメジャーリーガーが登場する。

Rose, he knows
he's such a credit to the game
But the Yankees grab the headlines every time
Melodrama's so much fun
In black and white for everyone to see

ピート・ローズ、ヤツは自分でもわかってるのさ
自分が試合のカギを握っているのをね
だけど、ヤンキースはいつだって新聞のトップニュースさ
メロドラマはなかなか面白いね
誰が見たって白黒はっきりするからね

Roseとはもちろん、MLB史上最多安打記録保持者であるPete Roseのことだ。

シンシナティ・レッズに所属していたローズはこの年、37歳を迎えて、198安打、打率.302で、4年連続、自身13度目となる打率3割をマーク、5月にはMLB史上13人目となる通算3000安打を当時、史上3番目の速さで達成し、さらに6月から7月にかけては
ジョー・ディマジオ(ニューヨーク・ヤンキース)の56試合連続安打、ウィリー・キラー(ボルティモア・オリオールズ)の45試合連続安打に次ぐMLB史上3位となる44試合連続安打も樹立した。

だが、ビリーに言わせれば、
「ピートもよくやってるけど、ヤンキースのほうが存在感は上さ」
ということだ。

ビリーのアルバム"52nd Street"が発売されたのは1978年10月11日。

ニューヨーク・ヤンキースは10月10日から、トミー・ラソーダ監督率いるロスアンゼルス・ドジャースとワールドシリーズの大一番に臨んでいた。
前年1977年と同じ組み合わせとなった。

ヤンキースは敵地ドジャースタジアムで2連敗を喫したが、その後、本拠地・ヤンキースタジアムで3連勝して王手を懸けると、再びドジャースタジアムに乗り込んで、10月17日におこなれた第6戦目も勝利し、4連勝で2年連続、22度目となるワールドシリーズを制覇した。
”Mr. October"こと、レジー・ジャクソンが3本塁打を放つなど、往年のヤンキースのスターたちが大活躍した。

ビリーは自分のアルバムも大ヒットし、29歳にして人生の絶頂期を迎えていたに違いない。

この時点では、ビリーもヤンキースファンだったと言えるだろう。

しかしながら、ビリーはその後、メッツのシェイスタジアムで国家斉唱をしたり、シェイスタジアムでのライブも行っている。
何よりも、ビリーのファンにはヤンキースファンもメッツファンもたくさんいるはずだ。

このことから、ビリーはヤンキースかメッツかどちらかのファンを公言するのは得策でないと感じたのではないだろうか。

なお、"Zanzbar"という曲には後日譚がある。
ビリーは2000年代に入り、この曲をライブで演奏したが、その時、歌詞が差し替わっていたのである。

Rose, he knows
He will never make the Hall of Fame

ピート・ローズ、やつはわかっている
自分が殿堂入りできないことをね

ピート・ローズは1989年8月24日、監督在任中に野球賭博に関わったとして、MLBから永久追放処分を受けていた。

ローズは、MLB通算4256安打というもはや誰にも破られれないであろう成績を残し、「野球殿堂」入りは間違いなかったが、この一件で、いまだに野球殿堂入りを果たしてはいない。

ビリーはこのことを皮肉ったのである。



そのあとの歌詞に、もうひとつ、野球についてのフレーズが登場する。

Me, I'm trying just to get to second base
And I'd steal it if she only gave the sign
She's gonna give the go ahead
The inning isn't over yet for me

この歌詞を訳してみると、

俺かい、俺は「二塁」を狙ってるのさ
もしあの子(ウェイトレス)がサインを送りさえすれば
俺は「盗塁」する気だよ
彼女は俺に「行け」のサインを送ってくれるはずさ
俺にとってはこのイニングはまだ終わってないんだからな

この歌詞に登場する「俺」は、Zanzibarのウェイトレスの女性を狙っている。
彼女が「サイン」を送ってくれれば、「俺」は彼女を自分のものにしようと思っている。
「二塁」とは、ウェイトレスのことを指しているのだ。


ビリーは実はドジャースファンでもあった?


ヤンキースファンなのか、メッツファンなのかはっきりしないビリーだが、実はもう一つ、贔屓のファンがあったのではないかと考えられる。

We Didn't Strat the Fire (1989)

ビリーは1989年12月、"We Didn't Strat the Fire"をリリースし、全米チャートで1位を獲得する。

この曲は、1950年以降の米国の歴史について、各年を象徴する人物や出来事をひたすら並べた歌詞だが、ここにも野球に関する出来事や選手名がいくつか登場する。
シンガーソングライターになっていなければ、歴史の教師になりたかったというビリーらしい曲だ。

1950
Harry Truman, Doris Day, Red China, Johnnie Ray
South Pacific, Walter Winchell, Joe DiMaggio

ジョー・ディマジオはニューヨーク・ヤンキースのスーパースターで、1950年時点ではすでに選手として晩年を迎えていたが、どうしても外せなかったのだろう。翌1951年オフに現役引退している。

1953
Joseph Stalin, Malenkov, Nasser and Prokofiev
Rockefeller, Campanella, Communist Bloc

ロイ・カンパネラとは、ブルックリン・ドジャースの名捕手で1953年には142打点、103得点、41本塁打で、自身2度目のMVPを獲得している。

1955
Einstein, James Dean, Brooklyn’s got a winning team
Davy Crockett, Peter Pan, Elvis Presley, Disneyland

「ブルックリンが勝利チームを得た」とは、1955年にブルックリン・ドジャースが初めてワールドシリーズ制覇したことを指している。
それまで何度も対戦し敗退してきた同じニューヨーク・ヤンキースと再び対戦し、ドジャースが2連敗した後、カンパネラが第3戦と第4戦に本塁打を放って対戦成績をタイに持ち込み、ついにワールドシリーズを初制覇した。
このとき、ビリーは6歳なので、よく覚えているのだろう。

1957
Little Rock, Pasternak, Mickey Mantle, Kerouac
Sputnik, Zhou Enlai, Bridge On The River Kwai

ミッキー・マントルも、ニューヨーク・ヤンキースのスーパースターである。1956年に、MLB史上9人目・11度目となる三冠王を獲得、翌1957年には打撃三部門でキャリアハイの成績を収めながらタイトルは無冠に終わったが、アメリカン・リーグのMVPを獲得している。

ヤンキースのディマジオとマントルと並んで、ドジャースのカンパネラが選ばれているということは、ビリーがブルックリン・ドジャースのファンでもあったのではないかという想像がつく。


1958
Lebanon, Charles de Gaulle, California baseball
Starkweather Homicide, Children of Thalidomide

「カリフォルニア・ベースボール」とは、1958年、ニューヨークを本拠地にしていたブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツがそれぞれ、ロスアンゼルスとサンフランシスコに移転したことを指している。

まだ9歳のビリーは衝撃を受けただろう。
地元のチームが、遠く離れた西海岸に去ってしまったのだから。

そして、ビリーは当時、ドジャースとの別れを惜しんだ思いを、30年後、この歌詞に込めたのだろう。

ニューヨークのチーム以外にも「浮気」?


ニューヨーカーのビリーだが、実はニューヨーク以外のチームへの「浮気」も発覚している。

2018年1月、MLBのフィラデルフィア・フィリーズが、ビリーと“名誉契約”を結ぶと発表したのだ。
ビリーはこの年の夏、フィリーズの本拠地であるシチズンズバンク・パークにおいて、5年連続、通算7度目となるライブを開催予定であったため、ビリーの大ファンであるマット・クレンタックGMがそれを称えて、「粋な計らい」をしたものだ。
ビリーには背番号「5」のユニフォームが贈られた。

ビリー・ジョエル、野球を愛し、野球からも愛されている男である。





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