【#球春到来】大瀧詠一と野球(1)1993年の長嶋茂雄

 今日から2021年のNPBの春季キャンプが始まった。新型コロナウイルスの影響で無観客での船出である。
 毎年、春季キャンプの季節になると思い出すことがある。

 1993年2月、ジャイアンツの宮崎キャンプはいつもよりもはるかに沸いていた。前年のドラフト1位、松井秀喜のお目見えもあったが、何よりも、長嶋茂雄が13年ぶりにグラウンドに還って来たからである。ジャイアンツの春季キャンプは宮崎総合運動公園内にある宮崎市営球場で行われていた。この球場の収容人員は1万5000人だったが、週末には県外からも同運動公園に5万人ものファンが訪れたという。
 背番号「33」の長嶋茂雄がグラウンドに現れれば、その一挙手一投足に、報道陣と観客の視線が注がれた。
 そして、その観客席には、ある一人の男も混じっていた。大瀧詠一である。

 大瀧詠一は1948年、岩手県に生まれた。幼い頃から、ラジオから流れるアメリカのポップスやエルヴィス・プレスリーを聴いて育ち、高校卒業後、上京すると、早稲田大学在学中に細野晴臣(YMO)、松本隆らと知り合い、1970年代に伝説のロックバンド「はっぴいえんど」を結成した。解散後、ソロミュージシャンとなり、作詞家になった松本隆と組んでつくられた名曲「君は天然色」を含むアルバム”A LONG VACATION”は、日本の音楽史に残る名盤となり、多大なる影響と足跡を遺した。他方、大瀧は映画、落語、お笑い、スポーツなど、ありとあらゆる娯楽に造詣の深い趣味人であった。

 そんな大瀧の興味の対象の一つであったのが、「長嶋茂雄」である。
 大瀧は音楽好きであると同時に野球少年でもあった。「はっぴいえんど」を解散し、ソロアーティストとして歩みを始めていた1974年10月、12歳年上の長嶋茂雄が現役を引退した。そのとき、大瀧は「自分はジャイアンツ・ファンではなく長嶋茂雄ファンだった」と気づいたという。エルヴィス・プレスリーらと並んで、大瀧にとっては長嶋も英雄的存在であった。
 長嶋は現役引退後、すぐにジャイアンツの監督に就任したものの、1980年10月、成績不振を理由に監督を「電撃」解任された。大瀧は、「俺の時代が終わる」とショックを受けた(翌年3月に、大瀧はアルバム”A LONG VACATION”をリリースした)。
 それから13年の月日を経て、長嶋は長い浪人生活を破って、ジャイアンツの監督に還ってきた。長嶋にはジャイアンツという伝統あるチームの命運だけでなく、この年から始まるJリーグの人気に対抗するため、プロ野球の巻き返しという使命さえ託されていた。

 当時、大瀧はミュージシャンとしての活動も、作曲家としての活動も休止中であった。
 ー長嶋の復帰をこの目で見届けなければならない。
 しかし、それには大きな障害があった。実は大瀧は飛行機での移動が大の苦手であったのである。
 大瀧は決死の覚悟で飛行機に乗り、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎へ向かった。これは1982年に、自身のアルバム発売のプロモーションのためにハワイを訪れたとき以来の飛行機搭乗だったという。大瀧はスポーツニッポンの記者に帯同し、ジャイアンツの宮崎キャンプを取材することになった。

 大瀧は、長嶋が還ってきた宮崎キャンプを評してこう言った。
 「このキャンプ、全員が長嶋のマジックショーに酔っている状態ですね。前のとき (第1期長嶋巨人) もそうでした。何か、ピンチになると、監督がボックスに入って打ってくれるんじゃないか、というような期待感、それが横溢していました。」

 その春、スポーツニッポンには「大瀧詠一~長嶋論ナイアガラ風味」なる連載コラムが掲載された。
「私、民主主義でも共産主義でもない。“いわゆる一つのチョーサン主義”を信奉するものであります」

 大瀧が宮崎キャンプ滞在中に、スポニチの記者が気を利かせて、大瀧と長嶋茂雄との面通しをアレンジしようとした。しかし、大瀧が喜ぶと思いきや、
「自分が興味があるのは“長嶋茂雄そのもの”でなく、“野球人・長嶋茂雄”だから会わなくていい」と断ったという。

 大瀧は「真のファンはあえて生の姿を見ない。ありとあらゆる長嶋さんに関するデータを集めることで、長嶋茂雄はどう考えるのか、どう対応するかを推理する。長嶋茂雄以上に長嶋茂雄になることが真の楽しみ方」と語ったという。

 こうした大瀧詠一の独特の野球観、いや、「長嶋茂雄」観の真骨頂が現れたのが、第2期長嶋巨人の1年目、1993年5月2日、東京ドームでの巨人対ヤクルトスワローズ戦である。大瀧はニッポン放送の放送席ブースに、実況の深沢弘アナウンサー、解説者のドラゴンズ・タイガースOBの田尾安志と共にいた。ラジオの野球中継でゲスト解説者としてデビューしたのである。

 野村克也率いるスワローズは前年、セ・リーグ覇者となり、日本シリーズで絶対的優位と言われた西武ライオンズをあと一歩まで追い詰めていた。その野村ヤクルトと長嶋巨人が初顔合わせとなったカードの3試合目であった。
 試合の序盤、3点ビハインドで迎えたジャイアンツの攻撃中、1死二塁のチャンスを迎えていた。スワローズは荒木大輔と古田敦也のバッテリー。ジャイアンツの二塁走者は俊足のリードオフマン、緒方耕一、バッターボックスには三番打者の吉村禎章が立った。ボールカウントはフルカウントとなった。


 マイクの前の大瀧は「臨機応変に行くのが長嶋野球なんです」と持論を展開した。
「いまね、(四番打者の)原(辰徳)の打席の前に(ジャイアンツベンチは)セカンドランナー(緒方耕一)に三盗させることを考えていますよ」と話した。
 それを聴いた深澤アナは「はあ、三盗ね」と気のない相槌を打った。
 確かに、いくら二塁走者が俊足の緒方とはいえ、序盤3点ビハインドの1死二塁で、主軸を打つ左の吉村の打席で三塁への盗塁を仕掛ける場面ではない。ワンヒットで1点の場面だからである。しかも、相手のキャッチャーは強肩の古田である。
 深澤はグラウンドを見ながら、実況を続けた。


「(ボールカウント)ツースリーから6球目。ランナー三塁へ!ボールは三塁に投げる。(緒方が)滑った。セーフ、セーフ、セーフ。三盗です。三盗です。ランナー(*バッター吉村)はフォアボール。ワンアウト一、三塁、ワンアウト一、三塁!」


 深澤はさっきとは打って変わって興奮気味に捲し立てた。百戦錬磨のベテランも、興奮のあまり、ところどころ日本語がおかしい。
 そして、深澤は大瀧に対するバツの悪さと脱帽からか、こんな言葉が口をついて出た。
「大瀧さん、どうぞなんでも言って下さい」
 それを聴いた大瀧は「ビギナーズラックですよ」と謙遜した。だが、その声からは、してやったりという気持ちが滲み出ていた。大瀧が「長嶋茂雄以上に長嶋茂雄に」なっていた瞬間だった。

 その試合、ジャイアンツは3点ビハインドの9回裏2死一塁で、高卒ゴールデンルーキーの松井秀喜に4打席目が廻った。長嶋はゴールデンウイークに合わせて松井を一軍に昇格させ、前日の5月1位、松井はプロ初の一軍を果たしたばかりだった。
 この日、スワローズのマウンドにはクローザーに抜擢されたばかりの高津臣吾がいた。この日まだ無安打の松井に対し、スワローズ監督の野村克也は、高津と古田のバッテリーに「ストレートで勝負しろ」と指示した。

 結果は歴史の知る通り。
 松井秀喜は、大瀧詠一の眼前で、プロ初ホームランを放っていたのである(尚、松井に打たれた高津もこの試合で、プロ初セーブを挙げた)。
 その年、長嶋巨人は、野村ヤクルトの後塵を拝し、3位に終わったが、翌年、長嶋自身が「国民的行事」と言い放った「10・8」をジャイアンツは制し、リーグ優勝を果たした。さらには日本シリーズでは、宿敵・西武ライオンズを破って、長嶋自身、監督として初の日本一に輝いた。


 時同じくして、大瀧は長嶋の復帰に刺激され、突き動かされるかのように、音楽家・プロデューサーとしての活動を再開させた。そして生まれたのがテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌で、渡辺満里奈が歌う「うれしい予感」である。ただし、長嶋巨人の日本一に対する大滝の「うれしさ」を現した曲がどうかは定かでない。一方、そのB面に収録された、植木等が歌う「針切じいさんのロケン・ロール」の作曲も大滝が手掛けたが(大滝は、植木が在籍したクレイジーキャッツのマニアである)、そのペンネームはRinky O’hen、「臨機応変」、すなわち、自らが評した、長嶋茂雄の采配スタイルを捩ったものだった。

 大瀧詠一は2013年12月30日に、この世を去った。大瀧の野球評論をもっと聴いてみたかったと思う。

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