◇0224日記 大正男と擂り粉木事件/ある愛の行方

  昨年の11月、母方の祖父が亡くなった。98歳の祖父は大正生まれなのに昭和生まれの父より背が高く、鼻が高かった。孫たちが悪さをすると仁王立ちで見下ろしながら、まるで大地を震わせたような低く籠った声で怒鳴りつけてくる。わたしは地響きのような声と閻魔を想像させる怒りの形相がこわく、1番怒らせてならない大人だと子どもながらに直感していた。祖父は曲がったことが大嫌いなのか、はたまた偏愛なだけだったのか、とりわけ素直で健気な人間を好いていた。祖父を含め親戚たちの多くは大分県と福岡県の県境に近い限界集落に住んでおり、都会に住んでいるのはわたしの家族を合わせてもごくわずかだった。盆と正月だけやって来てはお小遣いをせびる都会っ子のわたしより、祖父宅の近所に住む従姉のほうが段違いで贔屓されていた。「都会ん子はつまらん」「そげぇ勉強してどげんするとか」と小馬鹿にされるように言われていたのを思い出す。わたしと従姉のお年玉の金額が倍以上違ったりあまり多くを語らないことから、いけ好かない頑固老人だと遠巻きに見ていた。しかし、お小遣い格差は孫たちが続々と思春期を迎えた頃に大逆転する。高校生の頃のあるお正月、思春期にギャルやヤンキーに転身したため髪の毛を明るく染めたり、化粧を覚える孫たちの中で、唯一いもっこく黒髪だったわたしは祖父から諭吉を頂いたのだ。そして祖父は「あいつらはつまらんもんに使うなき、これやっちょけ。お前は(あげたお年玉を)取らるるなよ」と他の孫たちにそれぞれ2千円ずつ包んでいた。わたしは祖父のことを若者とは意思疎通のできない古い人間だと遠巻きにしていたが、比較的に孫の中で大人しいわたしは怒鳴られることがなくなり、自分から話しかけることが少しずつ増えていった。

 ところで祖父の怒鳴り声が向けられるのは孫だけではなく、ときに祖母のことも叱っていた。祖母は認知症を患い、晩年は老衰で弱くなったこともあり入退院を繰り返していたが、孫が家に遊びに来ると祖母は決まって我先にとお茶を汲みに行っていた。そして老化でやせ細った手でお茶の入った急須の柄を握り、カタカタと蓋を奮わせて祖母が居間に入ると、祖父が決まって「だぁ!そげなん娘たちにさせぇ!あぶねかろうが!」と怒号を飛ばしていた。わたしは祖母の困った顔を見かねて、「わたしが持ってくなき、おばあちゃんは座っちょき」と祖母の手から急須を受け取った。祖母はゆっくりと私の目を見て、××ちゃんありがとうと囁いて、困った顔で笑っていた。わたしは、祖母が可哀そうで仕方なかった。のちに祖父母は老化のため耳がとても聞こえづらく、彼らは話しているだけで怒鳴り合っているように見えているのだと知った。怒鳴るように大声で話して通じないこともしばしば起き、祖父はがんとして意見を譲らない険しい顔を浮かべ、祖母は戸惑ったような腑に落ちない表情を露わにしても、決まって二人は夜になると小さく目配せをして、寝室で布団を並べて就寝していた。

 わたしが大学に入り九州を離れた頃、祖父母宅の居間の柱に20センチはありそうな大きな擂り粉木が、腰の高さあたり釘で打ち付けられていたのだ。休暇で帰省していたわたしはちょうど居間から廊下へ出る引き戸の真横に、使い古した擂り粉木が取り付けられていたのを見て、暇を持て余した親戚のイタズラかと疑った。だが、柱に打ち付けられた擂り粉木は、孫たちに怒号を飛ばす厳格な家長である祖父の仕業だった。

 「ばあちゃんが足腰わりぃなき、うちんなかバリアフリーにするっちしちょったとばい?それなんに、工事はいつくるとかぁっち言って待っとられんで、自分で擂り粉木打ち付けたとばい!そん次ぃ日工事ん人が来てなぁ…」と伯母は話し、自分が町まで新しい擂り粉木を買いに行かねばならなくなったことを続けた。その話を聞いたわたしや他の伯母たちは、おかしかぁおかしかぁ(面白いの方言)、とお腹を抱えてヒイヒイ笑った。娘や孫たちが集まって笑っている姿を見て、耳遠くなった祖母は話は聞こえずともつられて笑っていた。祖父が起こした擂り粉木打ち付け事件は、足腰の悪い祖母を想って起きたことだとわかってから、急に祖父が血の通った人間に見え始めた。そしてどんなときでも毎晩、二人が同じ寝室に入っていく姿がロマンチックで、とても尊いものだと感じた。

 祖母がある正月明けに亡くなり、およそ2年後の今冬、祖父は急逝した。その時期は同じ地域で亡くなった人が多く火葬場が混んでいるという理由で、祖父の火葬は丸1日ほど伸び、わたしは葬儀に間に合った。親戚や村の住人が数多く参列していており、誰もが「長生きしたね」「大往生したね」と口にしていた。祖父や祖母は数多くの逸話を残しているが、わたしはこの擂り粉木の話がとびっきり大好きで、こっそり撮った柱の写真を眺めては、今でもあのときのお腹をよじった笑いがこみ上げてくる。祖父の愛情は深く、偏ったものかもしれない。わたしは祖父や祖母を取り巻く世界の都合の良い部分しか見ていない上に、傍から見てみれば九州男児という偏った言葉で片づけられるかもしれない。だが普遍的に紡がれた二人の愛の在り様は、何度思い出しても尊く慈しみが溢れ、感慨深いことであった。

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