mmnote

126
ノート

126:行方知らずになっていく「穴」

内田ユイ|TYM344「ART FOLDA 00 スキップ・トレーサー」で、内田さんの「穴」が描かれていた作品が、よかった。「穴」というそこにあるのかどうかが曖昧な存在を透明なサーフェイスに描く。サーフェイスは手前と奥との二層構造になっていて、手前の透明なサーフェイスに描かれた「穴」から、奥のサーフェイスに「穴」の影が投影される。影を得ることで「穴」は、確かに透明なサーフェイスに存在していることを

もっとみる

125:すべてはXY座標の平面に還元される体験であるようだけれど…

私たちが写真をみるとき、写真の奥行きが世界の奥行きに重なり合い、写真の平面性が奥行きのなかに吸収されていく。しかし、写真には像物体=紙ということが残り続けている。インターフェイスは写真が像物体であることを強調するような体験を形成する。これと同じことは博論について考えて時にも考えていた。GUIは視覚的な要素が強調されるが、マウスをもつ触覚的な感覚も同時に感じているはずであるということである。ここを考

もっとみる

124:向こう側」を感じさせるような一つのサーフェイスとして,世界を一度遮断する

現在,写真研究会での発表のために「写真」について考えているけれど,私はどうしてもデスクトップ画面に戻ってきてしまう.ここでの体験が,どのように表現に影響しているのかを考えてしまう.

今は「奥行き」と「向こう側」という二つの項の関係を考えているけれど,これもまたデスクトップにおける「奥行き」を示す画像を表示しつつ,それとは別のレベルでウィンドウやデスクトップという平面が重なっていて,これらが共存し

もっとみる

123:「GUI体験」としてあたらしく書いた部分

昨日の段階で,発表の流れは以下のようになっていた.

写真の「向こう側」を考える
・重なりの双対性
・写真の正面性
・「像物体」「像客体」「像主題」でもない「黒い線」を見る

今日はこのようになった.

写真の「向こう側」を考える
・デジタル写真のパラドクス
・GUI体験と奇妙な触覚
・外部から「黒い線」を召喚する

「写真の正面性」が丸々削除されて,「GUI体験と奇妙な触覚」で「GUI体験」とし

もっとみる

122:「パラドクス」を明示する表象

研究会の発表のためのテキストを書きはじめて,note に書いたものをまとめて,最初の流れは以下のようになっていた.

写真の「向こう側」を考える
・重なりの双対性
・触れる対象がない「奇妙な触覚」
・写真の「向こう側」を考える
・写真はモノであり,イメージであるという関係
・過去の自分の発表を振り返りつつ,写真の正面性を考えようとしたけれど
・二次元と三次元とが同等であるという状況が生まれる?

もっとみる

121:紙にプリントされた猫の写真を切り抜く

紙にプリントされた猫の写真を切り抜くとき,それは「紙=像物体」を切っているのであろうか,そこにプリントされた「猫=像客体」を切っているのであるのだろうか.猫の輪郭を切り抜くとすると,猫とそれ以外の境界線を切っていると言える.では,「境界線」は猫なのか? 「境界線」は,猫で猫以外でもない.だとすれば,単に「紙=像物体」を切っているのか.

この場合,確かに「像物体」を切っているとは言えるけれど,実際

もっとみる

120:整理で空いた空間が考えを圧迫してきて,頭をボーッとさせてくる

30日連続でnoteを書くと,頭のなかが空っぽになるような気がする.発表と連載のテキストの準備のためにnoteを書いてきて,書くことで考えがまとまっていくことがあるので,このまま書き続けたいのだが,考えがまとまっていき,頭のなかが整理されるとともに,整理で空いた空間が考えを圧迫してきて,頭をボーッとさせてくるような感じもある.

研究会の発表タイトルは「写真の「向こう側」を考える」となっている.こ

もっとみる

119:過去の自分の発表を振り返りつつ,写真の正面性を考えようとしたけれど

ダニエル・ルービンシュタインとカタリーナ・スルイスの「The Digital Image in Photographic Culture:
 Algorithmic Photography and the crisis of representation」を読んでいたら,過去の自分の発表を思い出した.それは「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」というタイトルで,谷口暁彦の《私のようなもの/見

もっとみる

118:写真はモノであり,イメージであるという関係

前回のnoteで写真を考えた果てに,理論物理学の話に行ってしまったので,この流れでデジタル写真を考えているダニエル・ルービンシュタインの論考「The Grin of Shrodinger's Cat」を読んでみた.そして,読んでいるときに,このテキストを日本語で読んだことがあると思い,アーギュメンツ3に収録された増田展大の「オブジェクトと写真───ポスト・インターネット再考」を読み返してみると,そ

もっとみる

117:重なりの双対性

写真研究者の村上由鶴は「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」のなかで,写真はデジタル化以前から「操作性」を持つメディウムだと指摘して,次のように書く.

デジタル写真術の普及は写真の操作を可能にしたのではなく,写真が潜在的に持っていた「操作されるものとしての性質」を解放したと言えるのである.pp81-82

そして,「「操作されたこと」を際立たせる」作品として,ルーカス・ブレイ

もっとみる