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119:過去の自分の発表を振り返りつつ,写真の正面性を考えようとしたけれど

ダニエル・ルービンシュタインとカタリーナ・スルイスの「The Digital Image in Photographic Culture:
 Algorithmic Photography and the crisis of representation」を読んでいたら,過去の自分の発表を思い出した.それは「テクスチャーの裏側にあるかもしれない記憶」というタイトルで,谷口暁彦の《私のようなもの/見ることについて》でオブジェクトの「裏側」について論じたものであった.

そこで引用していたのは以下のテキストであった.

実際,「オブジェクト‐イメージ」という古いバイナリモデルは,「オブジェクト‐不可知なもの‐イメージ」の三項モデルに置き換わってきている.「不可知なもの」では,物理世界の出来事をイメージとして認識できる何かへと変換する処理操作が行われる可能性がを引き起こす.この考えはアナログイメージにもコンピューテーショナルイメージにも同等に当てはまる.p.28
Daniel Rubinstein and Katrina Sluis, The Digital Image in Photographic Culture: Algorithmic Photography and the crisis of representation

この引用に対して,私は次のようなメモを取っていた.

「unknowable(不可知なもの)」をオブジェクトとイメージのあいだに入れて考えること.それはアナログもデジタルも同じ.「unknowable」な部分の処理が物理世界をイメージに変換していく.「写真」は4次元を2次元に変換する「unknowable」な変換をもつ.コンピュータは4次元の物理世界を0次元にする「unknowable」な変換をもつ.「0次元」にするから,そのあとにさまざまな変換が「unknowable」な処理で可能になる?
アナログの「unknowable」とコンピュータが可能にした「unknowable」は異なる.コンピュータは物理現象で動くけれども,それだけ説明できるものではない.ヒトのようなものである.だとすれば,物理現象として理解できるアナログの「unknowable」とは異なる様相を示すと考えられる.物理現象は物理世界を裏切らないけれど,コンピュータは物理世界を裏切る表象をつくることができる.

「不可知なもの」は,アナログでは写真の現像における光化学処理であり,デジタルではプログラムにおける情報処理となり,「オブジェクト‐不可知なもの‐イメージ」の三項モデルでは,アナログもデジタルでもちがいは生じない.

その後,発表ではアナログとデジタルはモデルは同じでも,そのモデルを成立させている原理が異なるということを指摘している.

『The Virtual Life of Film』において,ロドウィックはアナログとデジタルとの違いを存在論的に分析している.アナログの光化学プロセスは入力と出力とのあいだの連続性の原理に基づいているのに対して,デジタルイメージの情報処理過程は,存在論的に言うと,入力と出力とのあいだの分離と非連続性に基いている.この根本的な非連続性がなければ,コンピュータのアルゴリズムは機能しない.p.190
Eyvind Røssaak, Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide

さらに,哲学者の鈴木貴之の『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』から以下のテキストを引用している.

ここで重要なのは,経験される性質は,なんらかの物理的性質に還元されることによって,物理的世界に位置づけられるのではないということだ.物理的性質を持つ事物からなる環境のなかに本来的表象を持つ生物が存在するという,それ自体としては物理主義的に理解可能な事態が成立することによって,物理的性質に還元不可能な性質が,物理的世界の新たな構成要素となるのだ.このような考え方を,自然主義的観念論と呼んでもよいだろう.(p.178)

この引用を受けて,「アナログの不可知なものとコンピュータの不可知なものは異なる.コンピュータは物理現象で動くけれども,それだけ説明できるものではない.物理世界に基づく独自の世界=意識をつくりだすヒトのようなものである.だとすれば,物理現象として理解できるアナログの不可知なものとは異なる様相を示すと考えられる.物理現象は物理世界を裏切らないけれど,コンピュータは物理世界に還元不可能な表象をつくることができる」と,私は考えている.そして,その後,谷口作品の視点の移動とオブジェクトの裏側について考えていくことになる.

3年前の発表では「視点の移動」が重要であったが,今回,写真について考えてくると,視点は移動できたとしても,結局は,視点そのものからは逃れらないということが気になっている.私たちは自由に視点を移動できるが,視点を自分から引き剥がすことはできない.そして.写真というメディウムは,私たちから視点が引き剥がせないことを「正面性」から強調しているのではないだろうかと,今の私は考えている.

紙にプリントされた写真であれ,スマートフォンで提示される画像であれ,私たちはそれらを持ちながら,正面から見えるように調整する.横から見たときには,それらのモノ的側面も入ってくるが,正面から見ているときは,モノであり,イメージである状態で,私たちは目の前の写真・画像を見ることになる.

「正面」に視点が固定されるように促される写真が,コンピュータというアナログとは異なる非連続性=物理的性質に還元されない性質を持った装置で作成される.谷口が作成する3D作品の場合は,世界で視点が移動して,物理的性質に還元できない表象が生まれるわけだが,視点が固定される写真作品では,永田康祐が指摘する「シミュレートされた重なり」という「向こう側」と関連するような物理的痕跡=性質に還元できないものが生まれているのだろう.

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