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085:制御可能でありながら,制御から逸脱していくような流動性を示すあらたな「「物質以上に物質的な何か」

Webページは「ページ」という概念をヴァーチャルな「ページ」として定義し直されて,プログラム可能にしたものになっている.Webページは,レフ・マノヴィッチが「ニューメディアのオブジェクト」と呼ぶ,コンピュータが可能にしたあらたな存在になっている.

では,マノヴィッチが「ページ」をヴァーチャルなものとして定義し直すことができたのか.マイケル・ワイバーグはインターフェイスはこれまで「表象中心主義」であったと考えている.そこでは,デジタルとフィジカルとが明確に分けられていて,デジタルはフィジカルを「表象」=再現するものと考えられてきた.例えば,スキューモーフィズムはデジタルとフィジカルとを明確に分けた上で,デジタルにフィジカルな雰囲気を当てるものとなっている.デジタルとフィジカルとを明確に分けているからこそ,フィジカルなページがデジタルでヴァーチャルな「ページ」としてあらたに定義されることが可能になっているのである.

そして,ヴァーチャルな「ページ」は制御可能なオブジェクトして定義されているため,皺一つつけることなくスクロール可能になっている.もちろん,皺一つなくめくることもできる.「ページ」だけでなく,その上に配置されている「テキスト」「画像」というすべての表象もまた制御可能なオブジェクトしてある.さらには,「スクロール」というヒトの行為もまたインターフェイスに制御可能なオブジェクトとして組み込まれている.

しかし,ワイバーグは,データと表象とはもともとコンピュータと世界とを橋渡ししてきたと指摘する.さらに,データは世界に存在する何かのデータであり,表象もまた世界に存在する何かの表象であり,コンピューティングが独自に生み出すものではない.そして,近年,この橋渡しがモバイルコンピューティングなどでダイレクトになりつつあり,世界のなかで,世界ととともに,世界を通してコンピューティングされるようになってきている,とワイバーグは考えている.デジタルとフィジカルとは明確に分かれたものではなく,デジタルとフィジカルとはデータと表象を用いて,重ね合わされていると言えるだろう.

Appleの「Designing Fluid Interfaces」は,デジタルとフィジカルとの重ね合わせを連続的に変化する動的なビヘイビアで表現しようとしている.インターフェイスは単に世界を表象するものではなく,世界の変化の状態とともに変化する流動的で,連続的なものなのである.インターフェイス研究者の渡邊恵太が「Designing Fluid Interfaces」について,「物質を作らず,物質的で物質以上の体験を設計すること蓄積がここまできてしまった」と指摘している.このことが示すのは,ワイバーグの指摘と同様に,デジタルとフィジカルとがインターフェイスで重ね合わせれて,そこに「物質以上に物質的な何か」が生まれているということである.

ここでは,ビデオアーティストの河合政之によるマノヴィッチの「オブジェクト」に対する批判を考えてみたい.

マノヴィッチがこうしたオブジェクトを,正当にも〈ノイズ〉を排除するものとして考えていることに留意したい.pp.100-101

[アナログ的な]〈ノイズ〉的な逸脱に代わって,ここではアルゴリズム的なシミュレーションのもとで有意義性に依拠した可変性があらわれるのである.したがってここで言われている可変性とは,まさにサイバネティックス的な意味における「制御された偶然性」,すなわち統計的にプログラムされ計算可能な未来に他ならない.p.101

マノヴィッチについての先の分析が示唆したように,まさにデジタルな価値観に依拠した〈情報美学〉的な議論が見ようとしないもの,すなわちアナログなデータの逸脱へと向かうフィードバック,そしてそこにあらわれる脱情報化への眼差しが必要なのである.p.116

河合によるマノヴィッチのオブジェクト批判から考えると,「物質以上に物質的な何か」とは,デジタルの制御可能なオブジェクトを脱情報化したものだと言えるだろう.しかし,単にデジタルとアナログの対比で考えるのではなく,デジタルの制御可能性とアナログの逸脱性と合わせたかたちで,オブジェクトの脱情報化を考える必要がある.インターフェイスには制御可能でありながら,制御から逸脱していくような流動性を示すあらたな「「物質以上に物質的な何か」が生まれている.

ISSEY MIYAKEのDOUGH DOUGHという一枚の布を経由して,橋本が作成したクシャクシャになるWebページはこの「物質以上に物質的な何か」を示している一つの例なのではないだろうか.


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