アートボード_1-100

038:モノであり記号であり,記号でありモノであるようにインターフェイスを見る

モノの厚みを示すために3DCGのオブジェクトのアニメーションをつくる.「映像性」をモノの厚みに閉じ込めて,あるけどないけどあるような不思議な厚みをつくる.ディスプレイは普段,映像を表示しているけれど,そのとき,厚みは考慮されない.ディスプレイの厚み=モノというあるものと映像の厚みというないものを交差させて,あるけどないけどやっぱりあるような厚みをつくる.このような映像とモノとの交差が起こるのインターフェイスなのだけれど,普段はモノか映像=記号のどちらかしか感じられない.モノであり記号であり,記号でありモノであり,それらが否応なく切り替わってしまう状態をつくること.もしくは,そのように見れるようになること.このような状態になることが,インターフェイスの目的ではないけれど,インターフェイスを考えるときには必要なことだと思う.

「インターフェイス」という言葉とともに現象として現れた「架空の内部空間」をどのようにモノ化していくのかという方向で,この20年間は進んできたのではないだろうか.それは,記号をモノとして取り出すのではなく,記号のままモノとして扱うようにすることだと考えられる.そのとき,インターフェイスは記号であると同時に,モノでもある.それは当たり前のことであるが,記号とモノとを明確に分けずに,ネッカーの立方体のように見るようにすること.記号とモノとを明確に分けるのではなく,ネッカーの立方体のように「錯視」できるように見るような仕掛けをつくったり,「錯視」できるように訓練することが重要なのではないか.

インターフェイスはヒトとコンピュータとのあいだでできる限り透明になろうと「メタファー」という領域を移行する能力を使ってきた.その後,物理世界を剥ぎ取ってディスプレイに貼り付けたスキューモーフィズムになった.これがインターフェイスのモノ化のはじまりで,外界を忠実に真似ようとした.しかし,その後のマテリアルデザイン,Fluid Designは外界を忠実に真似るのではなく,エレメントのみを真似たり,常に動き続ける世界としての物理世界とヒトとの関係をディスプレイというサーフェイスに取り込んだりしている.ヒトとコンピュータとのあいだのインターフェイスがモノのように自律した記号の集まりになり始めている.ヒトとコンピュータという2つの項ではなく,ヒトとインターフェイスとコンピュータという3つの項で考える必要が出てきている.いや,3つの項で考えるのは難しいから,インターフェイスを基点として「外部」と「内部」,「ヒト」と「コンピュータ」,「モノ」と「記号」という複数の二項関係が,ネッカーの図形のように常に入れ替わるように交差させていけばいいのかもしれない.


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