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014:物理世界と仮想世界とが相互に憑依する

文化庁メディア芸術祭で,アート部門 受賞者トーク: 《アバターズ》に参加することになった.YCAMの「バニシング・メッシュ」展で《アバターズ》が展示されたときに,レビューを書いているので,再度,《アバターズ》について考えることになっている.

菅野創さんとやんツーさんは,《アバターズ》を語るときに.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「環世界」を使って,作品を説明していたように思う.確かに,《アバターズ》はモノとヒトとのあいだの環世界を行き来するのかもしれないなと思いつつ,私はレビューで「物理世界」と「仮想世界」という言葉を使うだけで,「環世界」という言葉を使わなかった.それはなぜだったのだろうか,ということを考えている.

菅野創+やんツーは《Avatars》で,インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.

そのとき書いた文章を振り返ると,私はきっと,環世界ということを「インターフェイス+物理世界」という言葉で示したかったのだと思う.「インターフェイス」というセンサーと表示装置との組み合わせによって,物理世界が「環世界」に変化するのであるが,環世界が複数あった場合,その重なりを可能にするのが仮想世界だと考えたように思われる.仮想世界という大きな枠があって,そこに複数のインターフェイスがあり,インターフェイスごとに特定の特性が与えらえれた物理世界があるということだろう.仮想世界と物理世界という二項対立的な世界の見方を,同じ言葉を使いながらその関係性を変えることが,これからのメディアアートが示すことなのではないか,と,私は考えている.

レビューでは「憑依」ということについて,あまり書けなかったようにも思うので,この辺りももう一度,考えてみたいと思っている.モノは「固有の機能」を持ちながら,ヒトに憑依される.ヒトはモノの固有の機能にインターフェイスを介して,アクセスする.モノ本来が持っているインターフェイスはここでは役に立たず,別のところにインターフェイスがある.これは,モノからインターフィエスを取り去ってしまうexUI的な考えかもしれない.しかし,《アバターズ》ではモノにインターフェイスは残っているので,ヒトの憑依に合わせて別のインターフェイスがあると考えた方がいいかもしれない.そのときに.ヒトとモノとはかたちを入れる変えると同時に,そのモノをそのモノにしてきた「履歴」を,ヒトの「履歴」と入れ替えているのかもしれない.理想としては「履歴」を上書きして,ヒトがそのものになるということだろうが,そんなことは起こりはしない.そこは,『ソウル・ハンターズ』で書かれていたような「相似的な同一化」「部分的な同一化」でいいのかもしれない.ヒトとモノとの双方の履歴を「部分的に同一化」することで,「憑依」を可能なものとして示してみる.この辺りをもう少し,考えてみたい.

私が「類似的同一化」や「二重のパースペクティヴ」,「動物ではないが,動物でないわけでもない」などのフレーズを用いながら捉えようと試みてきたのは,自己と他者が同一であると同時に別様であり,似てはいるが同じではないこの境界領域である.このことによって私が提起したいのは,もし我々がアニミズムを真剣に受け取ろうとするなら,世界との(ハイデガー的伝統における)完全な一致,あるいは世界からの(デカルト的伝統における)完全な分離といった考えは放棄しなければならず,その上で我々を世界に接触させつつそこから切り離す存在様態について説明しなければならないということだ.そして,もちろんこのような存在様態がある.それは模倣[ミメーシス]に基づく様態である.p.313 
ソウル・ハンターズ,レーン・ウィラースレフ

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