040:ユラユラしながらネチャネチャしたサーフェイス

インターフェイスで向かい合っていた二つのオブジェクトが,表裏一体になってサーフェイスになる.「表」と「裏」となっているが,それは一つのオブジェクトになっている.近ごろ,私が考えている「インターフェイスがサーフェイスとなる」ということは,この流れを考えているのだろう.サーフェイスが別のサーフェイスと向かい合って,再びインターフェイスになる.

上のようなことを考えたのは,落合陽一・清水高志・上妻世海『脱近代宣言」を読んでいるときでした.落合さんが「匂い」のインターネットという話で,そこでは自他の境界が曖昧になると指摘して,それを受けて,清水さんが経験論でもそれは言えるとして,西田幾多郎に言及します.

清水 西田は,持続性のある話をしているんだよね.ピアノを名人が一心不乱に弾いているようなとき,楽器という物からの作用と主体からの作用が行ったり来たりしながら,交錯するように連接して,それがずーっと続いている.こういったものも西田は純粋経験だと言う.持続もあるし,ある行為に関心が向かっている間が,まるごとそのまま今なんだとも言っている…….しかも今だけでなく,この場合の私のここ,っていうのも,それまで含めたここだと思うんだよね.だからそういうことを考えていくと,自他の境界はないってことは経験論で語れるし,デジタルネイチャーの話でも語られるし,生物も恐らくそういう世界に生きているってことが言えると思う.
落合 落合 自他の境界は,匂いの感覚の上ではあいまいだと思います.犬はTwitterにポストするかわりに,電柱におしっこかけてるもんね.そういうマーキングはおそらく彼らにとってのTwitterですよ.くんくん匂いをかいで,「あいつらいるんだ」みたいな.「みんな元気かな」みたいな.p.147

この箇所を読んでいるときに,私が考えている「サーフェイス」というのは,以前はインターフェイスを介して別々の二つの存在だったものが一つになりつつも,「表」と「裏」とには分かれている曖昧な状態になったものなのではないかと思ったのです.そこから,スマートフォンを考えると,それはモノとイメージとがひとつの道具としてまとめられたもので,そこでは,モノとイメージとの関係をもっとネチャネチャ,ネバネバした粘着質なものとして考えてみる必要があるのではないかと思ったのです.モノとイメージとが同じ存在の「表」と「裏」としてくっついている.コンピュータはモノとイメージとの接着を脱着可能にする存在として考えられます.コンピュータ以前では,モノとイメージとの関係はもっとキッパリだったり,パッキリだったり,サクサクだったりしてしてあっさりしたものだったと言えます.コンピュータがないから,モノとイメージとのあいだに脱着可能なネバネバした粘着面をつくることがでできなかったと考えられます.

こんなことを考えていたら,以前,明治大学FMSの渡邊恵太さんの研究室が行なっている「exUI」について考えていたときに以下のテキストを書いていたと思い出しました.

インターフェイスを剥がされて,サーフェイスと化したオブジェクトに再び「インターフェイス」を接着する.イメージとオブジェクトとの関係を脱着可能なものとして考えてみる.イメージとオブジェクトとのあいだの接着ではなく,両者の脱着可能性を考える.イメージとオブジェクトとがともに脱着可能なサーフェイスを持つとき,どちらがどちらの支持体と明確には言えない感じで両者のあいだのブレをそのまま活かしつつ,くっ付いたり,離れたりする可能性が生まれるのではないだろうか.

で,ずっとインターフェイスとサーフェイスについて考えているのは,10月2日に行われる「建築のインターフェイス」というシンポジウムに向けて準備をしているからです.

登壇者の一人である青木淳さんのルイ・ヴィトンのデザインについて,美術と建築とで実践と理論で活躍している砂山太一さんが次のように述べていました.

砂山 青木自身も《ルイ・ヴィトン銀座並木通り店》(2004)について,「完全に装飾であって,中の部屋と何の関係もありません.単純に,四角いところが出たり引っ込んだり,そういう見え方をするようにスケールと解像度だけでできている」と言っています.これは,装飾をある固定された物の表面として考えるのではなく,物の上で可塑的に変化するイメージの問題として議論するということだと思います.

ここでは「装飾」を「固定された物の表面」と「物の上で可塑的に変化するイメージ」との対比のなかで考えることと指摘されています,インターフェイスというのは「固定された物の表面」と「物の上で可塑的に変化するイメージ」をひとつにまとめる方向で進んできたのではないだろうかと,私は考えるわけです.しかも,それは「装飾」であり,「機能」であるわけです.モノとイメージ,装飾や機能といったものが,それぞれ「表」と「裏」となって重なり合いながらインターフェイスを形成してきたと言えます.

青木さんは『フラジャイル・コンセプト』のなかで次のように書いています.

揺れには両義性がある.がたがた,ぐらぐらと揺れるのは怖い.ゆらゆら,ふわふわとたゆたうのは気持ちよい.ふらふら,よたよたと揺れるのだとその中間くらいで,気持ち良いのと危なっかしいのとが混じっている.p. vi

「固定された物の表面」と「物の上で可塑的に変化するイメージ」とのあいだに「ゆらゆら・ふわふわ」したような領域があるのではないだろうか.そして,インターフェイスの最近の動向である「マテリアルデザイン」や「Fluid Interface」というのは,インターフェイスをイメージの塊を使いつつ,ひとつのモノのように捉えようとしているのではないでしょうか.だから,「マテリアル」であり「Fluid」というモノ的な名称が使われていると考えられるわけです.そうしてそこでは,「インターフェイス」という二つの存在のあいだにあるものではなく,「楽器という物からの作用と主体からの作用が行ったり来たりしながら,交錯するように連接して,それがずーっと続いている」というかたちで,交錯する連接の連続がつくるサーフェイスが生まれているのはないかと思うわけです.二つの存在が曖昧なところには,インターフェイスではなく,固定されたモノでもあり,可塑的なものでモノでもあるようなユラユラしながらネチャネチャしたサーフェイスがあるのではないでしょうか. [[January 24th, 2021]]
「ゆらゆら・ふわふわ」しているのが白いペーストであり,現象的フラットネスだと考えるといいのか
- ネバネバしていて,ゆらゆら・ふわふわしていて,固定した状態と可塑的な状態とを行き来しながら存在し続ける「モノもどき」を考える
- モノではなく,ソフトウェアがつくる「モノもどき」であり,ヒトの意識のなかに生成される「モノもどき」

- [[January 24th, 2021]]「ゆらゆら・ふわふわ」しているのが白いペーストであり,
現象的フラットネスだと考えるといいのか
   - ネバネバしていて,ゆらゆら・ふわふわしていて,
   固定した状態と可塑的な状態とを行き来しながら存在し続ける「モノもどき」を考える
       - モノではなく,ソフトウェアがつくる「モノもどき」であり,
       ヒトの意識のなかに生成される「モノもどき」

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exUIについては,このnoteを読むとわかります.私がexUIを知ったきっかけのポッドキャストの文字起こしです.


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