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021:認識の枠がバラバラになっていく《アバターズ》

《アバターズ》トークの準備をしていて,「物理世界」「仮想世界」といったものを「結界」のように考えていたのではないだろうかと思うようになった.ヒト+インターフェイス,モノ+インターフェイスで物理世界を認識する.そのときの物理世界は科学的世界観のもとでつくられた「結界」のようなもので,どこか四角四面な感じである.そして,そこにヒトの意識がつくりだす仮想世界という「結界」が重なっていて,これもまた四角四面な感じがある.この二つの面の重なりのなかにいるから,ヒトは世界を安心して認識できる.

しかし,《アバターズ》で再度,モノに憑依しているうちに,「物理世界」や「仮想世界」といった「結界」は要らないのではないのだろうかと思い始めた.ヒトとモノとにそれぞれインターフェイスがあって,インターフェイスがヒトとモノとの境界を決めている.ヒト+インターフェイス,モノ+インターフェイスが複数あり,それが重なり合っている.重なり合ったところに,ヒトとモノとが入り混じった領域が生まれる.作品の体験者は,その入り混じった領域を体験する.ここには物理世界や仮想世界といった「結界」をつくる枠はなく,重なり合った領域がバラバラにあるだけである.この重なり合った領域が,物理世界でもあり,仮想世界でもある.全体の枠がなくても目の前のことは認識できるし,認識の枠がバラバラになっていく様を体験できるのが《アバターズ》なのではないだろうか.

むしろ,狩猟者の二重のパースペクティヴが示唆するのは,視覚上の揺れのようなものである.その揺れの中では,「客体としてのエルクを見る主体としての狩猟者」と「主体としてのエルクによって見られている客体として自らを見る狩猟者」が,あまりの速さで交互に入れ替わるため,種間の境界が侵され,ある程度「一体化」が経験される.p.168 
ソウル・ハンターズ,レーン・ウィラースレフ

しかし,それでも寄って立っているのは「物理世界」のような気がする.物理世界にあるモノに憑依するからこそ,認識が揺らぎ,バラバラとなっていく様を体験できるのではないだろうか.それは,生物としてのヒトが物理世界に慣れているからかもしれない.憑依してモノと連動するという点で,意識が世界に接地して,モノとして生き始めるからかもしれない.この時点では「物理世界」ではなく,意識とテクノロジーが形成する「仮想世界」と呼べるものに寄って立っている感じもある.慣れた「物理世界」から放り出されて,「仮想世界」に落ち着き始めるけれど,慣れた「物理世界」へと戻ろとして,戻ると再度「仮想世界」へと放り出される.この二つ世界をフレームとして考えるのではなく,否応なく行き来してしまう/させられてしまう境界領域をつくるための要素として考えるのがいいのだろう.

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