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086:モノとデータとの複合体としてのあらたなバルク

ucnvは情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で開催された個展「Volatile」で「作品について」で次のように書いている.

本展示では,以前の制作を再構成し,3点の新作として展開する.

図書館入口正面の展示室の2作品では,2018年の制作で用いた,正常なものと破損したものを並置するという手法を引き続き採用する.その手法によって,オプティカルメディアとデジタルメディアを重ねて考察する上では,必ずファイルフォーマットに触れなければならないということを,改めて明らかにするだろう

書棚の間に設置された3ディスプレイでは,2016年の映像習作をインスタレーション化する.上記2作品が,カメラとコンピュータが合流する場としてのファイルフォーマットを前景化しているのとはまた別の意味で,スマートフォンというデバイスもまたカメラとコンピュータが合流する場であるということを示す.

昨年の展示で,ある人から「この作品はどうやって/どこに定着しているのか?」と問われた.そのときうまく答えられなかったその問いがどこかに引っかかったまま,ある.今回の展示タイトルを “Volatile”,すなわち「揮発性」としたことは,その定着,および定着に必要な支持体という対象をめぐる思索と無関係ではない.

ucnvによるステイトメントを読んだときに,まず「スマートフォン」がオプティカルメディアとデジタルメディアとが合流する場になっている点がとても印象的であった.連載の考察から考えると,「スマートフォン」は一つのサーフェイスであり,そこから連続してバルクを示すものであった.それは「画像」にモノの「厚み」を与えるものであった.それがなぜなのかと言うことを,ucnvのステイトメントは一つの回答を示しているように思えたのである.今回は,このステイトメントに出てくるカメラとコンピュータとの二つの合流の場,ファイルフォーマットとスマートフォンを,ucnvの作品に即して考えてみたい.このnoteでは,ステイトメントの順番とは逆になるが,物理的な厚みを持つスマートフォンから考えていきたい.


「ファイルフォーマット」については,MASSAGEの連載について書いてあります.このテキストは連載用に書いていたのですが,連載のこれまでの議論と重複するところが多かったのでカットしたものです.合わせてお読みください🙇‍♂️

画像の「厚み」を考えてみると,紙焼きの写真では紙の薄さが画像の「厚み」をないものにしてきた言えるのではないか.紙の表面に画像を定着させて,画像の裏はないものになり,画像の厚みが消えていき,そこには紙の裏面が現れる.それは,紙の裏面,もしくは紙と画像とが密着した「写真」という複合物の裏面であって,画像の裏面ではない.

コンピュータにおける画像は紙の薄さから剥がれ,めくることもできないサーフェイスになって,ディスプレイに表示されている.ディスプレイがブラウン管だったときは,「ブラウン管」というモノの厚みと画像の厚みは,恐らく分離していた.そこにはモノがあり,その前面に画像が表示されるサーフェイスがあった.モノと画像とが分離していたというか,それは液晶ディスプレイにおいても分離していると考えられるので,ブラウン管では「乖離」していたと言った方がいいのかもしれない.ブラウン管の厚みと画像の厚みとが一致することなく,それぞれあった.

ディスプレイがブラウン管から液晶になりモノの厚みと画像の厚みとの乖離が少なくなり,重なり合い,くっつき出した.そして,スマートフォンによって,「写真」と同じように画像が手に持たれるようになったことで,モノが裏面,画像が表面で構成された一つの複合物が生まれた.「写真」とは異なり,指で画像をダイレクトに触れているという感触が強いスマートフォンでは,モノの厚みが画像の厚みを代替しつつも「スマートフォン」というモノではなく画像が前面に出てくる.その結果,モノの厚みが画像の厚みとしてヒトの無意識に入り込んできた.その結果として,画像はスマートフォンのディスプレイをサーフェイスとして,その奥にバルクを感じさせるようになった.

しかし,モノと画像とが接着した複合物として,画像に厚みが生じたと考えるだけではなく,データと画像との関係でも考える必要があるだろう.ベンジャミン・H・ブラットンは『The Stack』で「ユーザ/インターフェイス/アドレス/都市/クラウド/地球」という6つのレイヤーが全世界を覆っていると指摘している.「ユーザ/インターフェイス/アドレス/都市/クラウド/地球」という6つのレイヤーは宇宙的視点の「地球」から始まり,地球的視点の「クラウド」「都市」を経由しながら,データ的視点の「アドレス」「インターフェイス」「ユーザ」と,複数の視点が同時に存在している.もちろん,クラウドは地球の気象現象の「雲」でもあり,データを処理するサーバー群が構成する「クラウド」でもあり,「アドレス」は都市の「住所」でもあり,ウェブの「URL」でもあるといったように地球的視点とデータ的視点とは明確に分けることはできないまま重なり合っている.そして,このダイアグラムが興味深いのは,スマートフォンのディスプレイに画像が表示されるときには,これらの6つのレイヤーをほぼ同時にめぐるデータが存在することになるという点である.ブラットンの指摘はマテリアルデザインと同じように世界を複数のレイヤー/サーフェイスの重なりで考えており,6つのレイヤーをデータが同時に存在することで,複数のレイヤーが重なりが地層のような一つのバルクを構成していると考えられるだろう.

マテリアルデザインはディスプレイの物的厚みを「サーフェイスの重なり」として分割しつつ,一つのバルクとしてまとめることで,モノとデータとを分けることなくユーザの操作に同時に作用する環境を形成した.同様に,ブラットンのダイヤグラムは複数の視点から見た抽象的な世界を具体的な6つレイヤーに分け,それらに同時に存在するデータによって結びつけて,一つのバルクを形成していると見ることができるだろう.ここで,ブラットンは6つのレイヤーに分けたけれどその数は問題ではなく,複数のサーフェイスの重なりによるバルクの形成は,スマートフォンの画面構造だけではなく,全世界的構造にもなっていると考えてみたい.そうすると,画像を構成するデータは複数のサーフェイスで構成されるバルクとともにあり,サーフェイスの画像に圧着していると考えられるだろう.そして,その圧力に耐えられなくなった画像は複数のサーフェイスから構成されるバルクとともにディスプレイのサーフェイスからはみ出るようになり,画像は指とダイレクトに触れ合うようになった.その結果として,画像はサーフェイスという平面的なものではなくなり,バルクを感じさせるようになり,「厚み」のなかで考えられるようになった.この流れで,タッチパネル上の画像は物質的質感を求めるようになり「マテリアルデザイン」という物理法則をシミュレートしたデザイン原則や,ディスプレイのガラスの質感を求めた「フラットデザイン」を経由して,流体的な滑らかさを求める「Fluid Design」が提案されたと考えられるだろう.

複数のサーフェイスから構成されるバルクという観点から,ucnvの「スマートフォンというデバイスもまたカメラとコンピュータが合流する場である」という言葉は考える必要がある.スマートフォンは画像とモノとが合わさったものではなく,それはコンピュータであり,そこにはデータが存在している.スマートフォンが提示する画像にはデバイスとしての厚みあり,複数のサーフェイスに同時に存在するデータが形成する地層のようなバルクからの圧力による「厚み」がある.一方は手に触れることができる厚みであり,もう一方は手に触れることはできないデータの「厚み」がある.この二つの異なる「厚み」が,一つのサーフェイスとしてのスマートフォンに合流して,モノとデータとの複合体として触れることが可能なバルクを形成するようになっている.だからこそ,スマートフォンというデバイスが示す画像は触れても良いものになっていると考えられる.

ucnvの《Twilight 2019, Tokyo, Japan》で,ディスプレイに表示されるスマートフォンは,モノとデータとの複合体としてのバルクをディスプレイのサーフェイスに再帰的に表示している.大型ディスプレイのサーフェイスに,iPhoneのディスプレイが示すサーフェイスがあり,そこには東京の夕暮れが表示されている.宇宙のどこかにある地球の東京のどこかに置かれた一枚の薄い板=サーフェイスとしてのiPhoneに表示される東京の夕暮れの上にバッテリー切れを知らせるもう一つのサーフェイスが重ねられた瞬間に,iPhoneのディスプレイからバルクがはみ出してきたように感じられる.はみ出してきたバルクは,iPhone内部の詳細をユーザに知らせることはない,しかし,押し出されたバルクは「バッテリー」というカメラとコンピュータとが合流した一つの複合体を駆動させるものが内部にあることを,プログラムに基づいてユーザに通知するサーフェイスをあらたに形成しているのである.

複数のサーフェイスの重なりで形成される一つのバルクが,バッテリーの通知のサーフェイスを通じて感じられるようになっていることを,大型ディスプレイのサーフェイスは見せている.ここでは,iPhone自体のモノの厚みは見るだけで,触れることはできない.けれど,バッテリーの残量を知らせるサーフェイスは確かに夕暮れの東京を示すiPhoneのディスプレイにサーフェイスの重なりをつくると同時に,モノとディスプレイという区別をなくした「スマートフォン」というバルクがそこにあることを示すのである.ただ,私たちはそれを自分のスマートフォンのように持つことはできず,見ることしかできない状態に置かれているため,バルクとその感覚は見る者に定着することなく,揮発してしまう.

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