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125:すべてはXY座標の平面に還元される体験であるようだけれど…

私たちが写真をみるとき、写真の奥行きが世界の奥行きに重なり合い、写真の平面性が奥行きのなかに吸収されていく。しかし、写真には像物体=紙ということが残り続けている。インターフェイスは写真が像物体であることを強調するような体験を形成する。これと同じことは博論について考えて時にも考えていた。GUIは視覚的な要素が強調されるが、マウスをもつ触覚的な感覚も同時に感じているはずであるということである。ここを考察して、アフォーダンスの受け渡しということを考えたのが博士論文であった。

だから、私たちは常に重なるウィンドウを視覚と触覚とを用いて使っている。そして、ディスプレイは物理世界とは異なる平面である。インターフェイスは「向こう側」をつくる「遮断」の平面で「奥行き」を示しつつ、「遮断」の平面をXY座標として最大限にいかして「奥行き」を平面で操作できるシステムをつくっているのである。コンピュータを使うユーザは、この平面に対しての感覚をもっている。しかし、その感覚はいつもは「奥行き」の感覚に抑圧されている。なぜなら、「奥行き」の感覚こそが、今の表象の基本となっている西洋美術が追い求めてきたものだからである。もちろん、西洋美術においても、追い求めた結果としての反動があり、それ以外の方法が試された。しかし、写真という機械的装置は、この西洋美術の延長線上に生まれており、それは洋の東西を問わずに受け入れてられている。

しかし、写真、特にコンピュータで扱う画像は、コンピュータの論理空間という外部空間で扱うものである。すべてはXY座標の平面に還元される体験である。しかし、画像加工はもちろんのこと、3Dを扱うアプリケーションも、すべては平面のXY座標の出来事であることはできるかぎりユーザに感じさせないようにしている。あたかも物理世界というこちら側と地続きの向こう側のように装って、ユーザ体験をつくりだしている。しかし、ディスプレイという平面が「遮断」しているのである。あくまでも、ディスプレイが提示するXY平面での出来事であることを考えなくてはならない。

そして、現在、このディスプレイという平面の体験が写真に跳ね返ってきてるのである。私たちは写真が平面の像物体であることを忘れてはならない。そして、ポストインターネットの作品は、写真が平面の像物体であることを、立体感を否応なく感じさせる立体感を妨げながら、写真の体験者に訴えてくるのである。

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