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108:写真の「向こう側」を考える

カメラのシャッターを押して出来上がる写真には,もともと「触覚」はなく「視覚」のみがあった.しかし,デジタルになって「写真」を操作することが当たり前になって「触覚」が入り込んできた.けれど,最終的に写真として提示されるときには,操作の履歴が失われると同時に「触覚」も欠如して,「視覚」のみが写真のサーフェイスを覆っているのではないだろうか.

写真にはもともと「触覚」はないけれど,デジタルになった写真には「触覚」は入り込んでいる.しかし,どちらにしても最終的に見る写真からは「触覚」は抜け落ちていて,「視覚」がサーフェイスを覆っている.デジタル写真に入り込んでいる「触覚」はシミュレートされたものに過ぎないから,その履歴をすっきりとなかったことにできる.けれど,「シミュレートされた触覚」を「シミュレート」から逸脱して使うと,写真における「視覚」と「触覚」とのバランスが崩れて奇妙なサーフェイスができあがる.

この作業はソフトウェアで行われている.「シミュレートされた触覚」が逸脱した結果が最終的な「視覚」のサーフェイスに残されることになる.このとき,「触覚」は「操作履歴」として消去されて,その痕跡がなくなった状態でサーフェイスに定着されている.しかし,逸脱した「シミュレートされた触覚」の気配が残っているので,「視覚」と「触覚」とのバランスは崩れて,奇妙なサーフェイスが出来上がる.

ソフトウェアで行なっていたことを,モノで行なったとしたらどうだろうか.デジタルで写真に入り込んできた「触覚」を,シミュレートされたものではなく,実際に写真のサーフェイスに取り込んでみる.写真にデジタルを経由して入り込んだ「シミュレートされた触覚」を「シミュレート」を外して「触覚」として取り込む.そこでは,写真のサーフェイスが引き剥がされて,モノとイメージとの境界としての「写真」が立ち上がってくる.

写真の「向こう側」を考えるためには,デジタルを経由した「写真」の写真的なサーフェイスを引き剥がし,その奥にある「視覚」と「触覚」とが隣り合っている場を考えてみることが必要なのではないだろうか.

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