053:シンプルなマクルーハン主義

ドミニク
見たことのない知性をつくるというのはそれはそれでおもしろ話だと思うのですが,どちらかというと僕が興味があるのは,身体という制約のあるハードウェアを用いて生きている個体として,群体としての人機一体というもの,たとえば単純なサイボーグのイメージがありますが,それはいったいどうなるのだろうか,ということです.
知覚が拡張して,そこからわれわれの知覚から認知がどう変化するか.認知の構造がそれによってデザインできるとしたら,どのような豊穣な世界を生きられるのだろうということを考えています.だから,もしかすると僕は結局はシンプルなマクルーハン主義なのかもしれません.pp.112-113

ドミニク・チェンさんが松岡正剛さんとの対談本「謎床」で,自分のことを「シンプルなマクルーハン主義」と言っている.私自身も,ドミニクさんがいう意味での「シンプルなマクルーハン主義」だと思う.でも,シンプルとは言っても,マクルーハン主義は自分の立っている前提が揺らぐような変化を受け入れる覚悟を要求する.

マクルーハンは「外爆発」という言葉で,道具やメディアによって,ヒトが変化していくと指摘した.これは道具やメディアが身体を拡張していくことである.この段階でもヒトは変化しているのであるが,マクルーハンは「内爆発」という言葉で,身体の拡張した先に,ヒトの神経,つまり,認識が変化するとしている.身体が変化し,知覚が変化し,認知の仕方が変化していく.認知まで変化するとなると,それまで前提としていた前提が変わってしまうことになる.身体が変化としても,認知が従来通りであれば,その変化を認知できる.しかし,認知自体が変化した場合,そこで起こっている変化を捉えるのは難しくなる.

マクルーハン主義はヒトの変化を受け入れるのではなく,ヒトの変化自体を認識できなくなるけれども変化を受け入れるということを要求してくる.ヒトとメディアとの共進化は確かに起こるのだが,共進化していくなかでヒトはメタモルフォーゼ=変身していく.外爆発と内爆発とを繰り返すなかで,ヒトは自らが立つ大地自体とともに変形していく.

共進化において蛹のように一度,自らの形態を溶かしてしまい,別の形態となっていくこと.ヒトの場合,それは身体の形を変えるのではなく,認知の仕方の変化で行われる.認知の仕方が道具やメディアとともにドロドロに溶け,別のフォーマットにメタモルフォーゼしていく.ヒト単体では蛹になるのは何世紀もの時間を必要とするとしてコンピュータはヒトを強制的に蛹にしようとているのかもしれない.それはネガティブなことでも,ポジティブなことでもなく,進化という点では必然的に起きていることであり,単に時間スパンが短くなっているだけなのだろう.


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