049:私たちの身体は影のマスキングによって「平面に住まう身体」に移譲されて,ひとつのサーフェイスに集約されているのかもしれない

小鷹研理さんの《公認候補》を横から見ると高さが存在している.しかし,その高さは上から見ると消えている.それは,下からの光源としてディスプレイがあるからだろう.ディスプレイが光源となって,光が下から上に向かう.それによって基底のサーフェイスから影が消失する.影とともに高さがなくなり,高さがバラバラな複数のサーフェイスが一つのサーフェイスに集約されていく.そして,集約されたサーフェイスにはモノと映像との区別がなくなっているような感じがある.

それは金澤さんと小鷹さんの研究の「影に引き寄せられる手」とともに考える必要があるように思われる.光源が下にあるということで,手の影が上のスクリーンに投影されて,体験者は手の位置が影に引き寄せられて上に上がっているように感じるという実験.身体というモノが,影という映像に引き寄せされていく.自分の身体が騙されるこの感覚はとても面白い.身体をモノとして認識すると同時に,映像,見た目としても認識している.そして,モノよりも映像に引き寄せられて認識する.《公認候補》でも,サーフェイスがモノよりも映像に引き寄せられて,集約されていっているように見える.けれど,《公認候補》は「影」が消失しているという点で,影が重要な役割を果たす「影に引き寄せられる手」とは異なるし,そもそも錯覚の主である身体が消失している.鑑賞者は作品を見ることしかできない.鑑賞者の「視点」としてあり,身体は影に引き寄せられるという奇妙な体験をすることはない.また,影が消えているといっても,自分の影ではなくデバイスの影なので,そもそも自分とは関係がない.

自分のものではなくても影が消えるという体験そのものは奇妙なものだ.この世界にはどこかしらに影がある.私たちは常に影を見てきた.地面などに投影される影と自分との関係を常に見ている.だから,マテリアルデザインは影を強く意識した.しかし,《公認候補》では,ディスプレイが放つ下からの光によって,その上に置かれたスマートフォンやタブレットがつくる影が消されている.影がないから,モノと世界との関係が失われるように見えるけれど,影が完全に失われたわけではなく,デバイスが表示する映像には影が残っている.だから,映像に映るモノの方が,より強いモノとしての存在感を示すのかもしれない.影との関係の中でヒトやモノをとらえる必要がある.そして,影として投影され,さらにその影に引き寄せられたとき,ヒトは平面世界の住人になっていると言えるだろう.

小鷹研究室の各位各論身体論」にある「平面に住まう身体」という言葉は,コンピュータ時代において,とても意味のあることだと考えられる.ディスプレイという平面にヒトは住み始めている.だから,カーソルにもなるし,マリオもにもなる.ディスプレイという物理的に二次元の平面に住み,その平面には独自の記号的世界をが広がっている.記号的世界の中の住民になりつつ,三次元の世界から二次元の世界へと移住をヒトははじめた.二次元の世界で三次元的な要素を示すのが影ということになる.影によって高さが生まれる.でも,それはどこまでいっても平面=二次元の世界であり,影がそこでは重要な記号として表示される.記号によって統合された世界と物理的二次元の世界としてのディスプレイとが重なり合った世界に,ヒトがスルスルと入り込む.いや,気がつくと入れられていた.

松永伸司さんの『ビデオゲームの美学』で考察されていた「統語論的空間」と「ゲーム的空間」との重なり合いから,《公認候補》考える必要があるのかもしれない.松永さんが吉田寛さんの論文「ビデオゲームの記号論的分析」(『ゲーム化する世界: コンピュータゲームの記号論』所収)から引用している「ファミリースタジアム」でのフライを捕球するときの影の役割も興味深い.まさに,ヒトが影を二次元の世界で有効活用している.三次元の世界にいる時とは異なる行為が生まれている.これは記号的世界と物理的二次元の世界がぴったりと重なり合っていた時代に起こった奇跡なのだろうか.その後,ゲーム空間が三次元していったビデオゲームとは異なり,GUIの世界では今も操作空間は二次元であることが基本であり,マテリアルデザインでは影が有効に使われている.それは,基底のサーフェイスと影との関係は切っても切れないという認識だからであろう.

しかし,操作空間と二次元のディスプレイとの関係において,身体所有感はどこにあるのか.ビデオゲームやコンピュータ,スマートフォンのインターフェイスは「影に引き寄せされる身体」が示す身体所有感すらもズラす影の力を有効に使えているのか.いや,そもそも身体がディスプレイから締め出されているのだから,ビデオゲームやインターフェイスには身体所有感はないのかもしれない.身体もなく,身体所有感もないけれど,ディスプレイ内で「影」は使われ続ける.そして,《公認候補》においても影はディスプレイ内に存在している.この影はディスプレイに入り込むことがない身体をディスプレイに引き込むのか.あるいは,影があることで,身体所有感がディスプレイにないことを強く意識しているのかもしれない.影の有無がディスプレイの外と内とあいだにずれをつくるとともに,ディスプレイと身体,そして,身体そのものの中にズレを生み出していると言えるかもしれない.

身体そのものにズレを生み出すとはどんなことだろうか.そのズレを明確に示そうとしているのが,小鷹さんの一連の研究であり,作品であるのだろう.《公認候補》は作品として,このズレを示している.それは明確に映像としてのズレとして示されるときもあれば,見ているヒトの身体,認識の中で生じるズレであるかもしれない.何れにしても,ズレはある.ズレが映像で起こっている場合は,平面のズレであるし,ズレが映像とモノとのあいだで起こっていることがある.このときのズレは高さであるが,このズレが下にある光源としてのディスプレイの光によって消されている.

ここまで書いてきて思ったのだが,《公認候補》では何がマスキングされているのであろうか.「影に引き寄せられる手」では,身体がマスキングされて,下からの光源によって影が身体をマスキングしたスクリーンに投影されている.身体がマスキングされることによって,モノとしての身体と映像としての身体=影との間にズレが生まれて,身体が影に引き寄せされる.身体が二つあるはずはないという結果,モノよりも影が優先される.では,《公認候補》では何がマスキングされているのか.「影」がマスキングされていると考えたらどうだろうか.影がマスキングされた結果,物理的な高さにズレが生じている.物理的高さが映像に吸収されていく.それを見るヒトはマテリアルデザインを見るときのように,上からの視点で見る.私たちの身体も影のマスキングによって「平面に住まう身体」に移譲されて,ひとつのサーフェイスに集約されているのかもしれない.

身体と視点の関係を考える必要があるのかもしれない.鑑賞者は視点としてのみ存在している.けれど,小鷹さんの作品は,視点としての身体に強く身体所有感を訴えてくるものになっている.視点に身体が生まれる.身体があり,視点があるのではなく,視点が先にあり,そこに身体が生まれる.その身体はヒトのカタチをしていなくてもいいのではないか.タコの形をしていてもいいのではないだろうか.というのは言い過ぎで,小鷹さんの作品・研究はヒトの身体所有感に強く訴えるもので,それゆえに,ヒトの身体のカタチを強く意識させる.身体がモノであること強く意識されるからだろう.身体がモノであり,そのものが一つの視点から構成されていく.視点とモノとがぴったりと重なり合いそうで,少しズレているから気持ち悪いのかもしれない.視点とモノとの話はありきたりな感じがする.でも,重要な感じもする.視点から逃れられない身体から,視点のみが先にあることを強く意識することができたら,身体と視点との関係は異なってくるかもしれない.

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