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103:触覚を無理矢理にでも視覚から締め出す

noteをはじめたばかりに書いた記事で次のように書いていた.

ウィンドウの体験の蓄積から出てきた遠近法ではない平面の捉え方があって,その一つ,基準として一つののっぺりとした平面=サーフェイスがあって,とその奥と手前に分割されるということがあるのではないだろうか.そこでは空間は連続していない.平面の重なりとその動きによって,はじめて「空間」が生じると言った方がいいのかもしれない.映像がある形に区切られた瞬間,映像がのっぺりとした平面になって,連続した空間が消失するけれども,重なる平面の動きによって,あたらしい「空間」が生まれる.

ここで書いていることは,コンピュータのインターフェイスではじめて出てきたわけではなく,絵画の歴史で常に問題になっていることだった.しかし,絵画ではなく,ウィンドウが重なるインターフェイス,タッチ型のインターフェイスを経由したあとで改めて考えてみる必要があると思う.

ディスプレイという二次元の平面のなかにウィンドウというあらたな二次元の平面が重なり合い,それらを操作できるということから,「空間」を認識していく.視覚に触覚が入り込むことで,「奥行き」ではなく,平面の重なりのなかで遮蔽された「向こう側」を意識していく.このような「向こう側」への感覚を蓄積していった後で,「操作」ができない「写真」として,平面の重なりを接着してしまう.

例えば,Joe Hamiltonの《Indirect Flights》について,永田康祐が書いた文章をみてみたい.

このようなデジタル画像における履歴の喪失は,例えば,ジョー・ハミルトンの《Indirect Flights》において実感することができる.ウェブブラウザ上での鑑賞を前提とするこの作品は,二つのレイヤーに航空写真や工業材料のテクスチャ,ブラシストロークといった画像が配置されることによって作られている.鑑賞者は,Googleマップのような画面をスクロールすることによって,視差効果による画面の奥行きを感じながら画面の構成を見渡していく.ところが,ひとたびスクロールを止めると,この奥行きは減退し,様々な画面がタイル状に並べられたかのような平面的な図像を前にすることになる.つまり,動いている状態では前後の重なりを持っていた画像が,静止した瞬間にその奥行きを喪失するのである.この状態の推移は,私たちの感じていた重なりが,単にシミュレートされていたものであるということを明らかにしている.表示されている画面は,複数の要素の重なりでもなく,タイル状の組み合わせでもなく,単なる一枚の平坦な画像なのである.p.99
Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて

「動いている状態では前後の重なりを持っていた画像が,静止した瞬間にその奥行きを喪失する」と書かれている.前後の重なりが接着されて「単なる一枚の平坦な画像」となる.「単なる一枚の平坦な画像」には「奥行き」はあまり見出せず,「向こう側」への感覚だけが残るというか,画像のサーフェイスで遮断された感覚がある.そして,「遮断」されていることで,その向こう側が意識されるわけでもないが,「遮断」ということで「こちら側」が強く意識されるから,「向こう側」の気配を感じるようになってくる.でも,これは「操作」をしていたから感覚が残っているからかもしれない.いや,「操作」がなくてもこの「遮断」の感覚は強く感じるかもしれない.何か薄く伸ばされたような「単なる一枚の平坦な画像」が,こちら側と向こう側とを接着するような感じ.

「操作」を接着材として,視覚と触覚とが結びついていたものから,「操作」をとると視覚だけが残る.しかし,そこには触覚の気配が残っていて,それが作品のサーフェイスの見え方を変えているのかもしれない.

デジタル画像は,自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウムなのだ.例えば,絵画のメディウムにおいて,その描線や色面は,筆跡や色の重なりによって,それがどのように描かれたのかを同時に記録している.それはマネ以降モダニズム絵画に至るまでのおよそ半世紀のおいて顕著だが,それ以前や以後においても,これらが物理的なメディウムに依拠する以上決して逃れえない条件である.この点において,デジタル画像の平面性は「平台型絵画平面」における平面性とは決定的に異なる.p.98
Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて

永田はJoe Hamiltonの作品の分析の前に,無時間的なデジタル画像と「制作」という時間の痕跡を保持する絵画とを比較している.しかし,デジタル画像において重要なのは「履歴としての操作」を取り除けるということなのではないだろうか.視覚と触覚とが分かち難く結びついた制作の痕跡が残ったものが作品として提示されるのではなく,視覚と触覚とが分かち難く結びついた制作の痕跡から「履歴としての操作」を差し引いて,触覚を無理矢理にでも視覚から締め出す.このプロセスによって,触覚は作品のサーフェイスで居場所を失い,その気配だけが残される.デジタル画像と絵画とのあいだには,痕跡に対する視覚と触覚との重なり具合のちがいがあり,このちがいが作品のサーフェイスの意味合いを変えているのかもしれない.


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