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107:何かの「ラベル」を剥がしていく

身体と言ってみたところで,何よりもまずそれはオブジェクトのことであり,そのオブジェクトの上に「body」という名の,なにやら特別なラベルが貼られているだけなのだ,と考えてみる(それは,認知科学的の世界では「身体所有感」と呼ばれるような感覚的対象である).そうであるならば,僕たちは誰であれ,その「body」ラベルを首尾よく剥がすことさえできれば,「オブジェクトとしての身体」にアクセすることができるだろう.しかし,簡単な実験をしてみることで誰でもすぐにわかることだが,この「body」という名のラベルは,なかなかの厄介者で,どのような接着剤をもってしても叶わないような強力な吸着力で,オブジェクトにべったりと張り付いていてしまっている.そのようなかたちで,僕たちの身体は,周囲の物体に溢れた風景から隔離され,身体の牢獄の中で,身体という特別な役回りを演じ続けることを強いられるのだ.本作は,そのような原理的な分離不可能性を宿命づけられた「bodiject=オブジェクトとしての身体」へとアクセスするための,一つの体験装置として(結果として)試作さ(せら)れたものである.
小鷹研理《ボディジェクト指向 #1 》2018

昨日書いた池田衆さんの作品《Pomegranates #1 》と同じようなゾクゾクするような感覚が,小鷹研理さんの《ボディジェクト指向 #1 》を見ているときにも感じる.それは小鷹さんが作品解説で書いているよう「ラベル」を剥がして,ラベルのその先の何かを体験する装置として作品が機能しているからであろう.

小鷹さんは「オブジェクトとしての身体」から「身体」というラベルを剥がしているのだとすれば,池田さんは何から何を剥がしているのか.「オブジェクトとしての写真」から「写真」というラベルを剥がしたのだろうか.「写真」というラベルを剥がした先に現れる「オブジェクト」は,「写真」というラベルの向こう側にありつつも,その存在にアクセスすることは難しい状態にあった.

何かの「ラベル」を剥がしていくことは,何もサーフェイスに貼り付けられた「ラベル」を剥がすことだけではなく,モノの「サーフェイス」そのものを「ラベル」とみなして剥ぎ取ってしまい,モノの「バルク」を剥き出しにしているとも考えられるだろう.

地球上に存在する純物質と混合物のおよそ全ては,他のいかなる物体にも触れることなく,それのみで存在することはない.たとえば海水は海底や海岸,空気とふれあい,コップの水はコップの表面や空気とふれあわずには存在できない.しかしその一方で,海水の大部分,コップの水の大部分はそうした他者と触れ合わず自分自身とのみ触れ合っている.この,自分自身とのみ触れあい,他者からの影響が無視できる領域をバルクと呼ぶ.
https://ja.wikipedia.org/wiki/バルク_(界面化学)

「写真」や「身体」として他者との触れ合いのなかにあった存在からサーフェイスを剥ぎ取り,「自分自身とのみ触れ合っている」領域であるバルクを見る者に体験させること.それは,「写真」や「身体」という言葉で示されていた存在の「向こう側」を考えることになるのではないだろうか.

具体的には,池田さんは「写真を切り抜く」という行為,小鷹さんは「3本の指を動している映像を鏡に反射させる」という状況を設定することで,それぞれ「写真」と「身体」というラベルを剥いで,サーフェイスの「向こう側」にあるバルクを剥き出しにしている.「写真を切り抜く」という行為は,モノ(三次元)とイメージ(二次元)とのあいだを行き来して,「映像を鏡に反射させる」という仕掛けは,三次元(奥行き)を二次元(向こう側)に縮減した映像を,二次元(向こう側)のまま三次元的(奥行き)な存在にしているのではないだろうか.

ここで,この二つの作品を「境界(線)=インターフェイス」の問題として考えることで,写真や映像のサーフェイスを引き剥がした向こう側にあるバルクを体験することの意味を考えることはできないだろうか.「履歴としての操作」を喪失したデジタル画像・映像が一般化したからこそ出てくる視覚と触覚とのバランスをあえて崩していく作品を考察することで,デジタル画像・映像のサーフェイスを引き剥がしてみたい.

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