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117:重なりの双対性

写真研究者の村上由鶴は「デジタル化以降の現代写真における写真メディウムの可視化」のなかで,写真はデジタル化以前から「操作性」を持つメディウムだと指摘して,次のように書く.

デジタル写真術の普及は写真の操作を可能にしたのではなく,写真が潜在的に持っていた「操作されるものとしての性質」を解放したと言えるのである.pp81-82

そして,「「操作されたこと」を際立たせる」作品として,ルーカス・ブレイロックの作品をあげる.この映像を見れば,ブレイロックの作品で「操作」が重要な要素になっていることは明確であろう.

村上はPhotoshopなどでの「操作」の痕跡を明確に残すアーティストの作品について,次のように書く.

現代に芸術を希求する写真家は,それまでの写真には見られなかった「操作」を創作の中心に位置付け,写真術,写真のプロセスを痕跡として完成したイメージに残すことで,支持体としての写真メディウムを可視化している.p.84

Photoshopなどの画像編集ソフトウェアは,写真の「透明性」をつくるために使われてきたが,ブレイロックなどのアーティストは,同じソフトウェアを「透明性」のためではなく,「写真」というメディウムの条件を明らかにするものとして使用している.

確かに,村上の書く通りであろう.ブレイロックの作品にはPhotoshopによる操作の痕跡が多く残っている.しかし,興味深いのは,その痕跡が単に操作されたことを示すだけではなく,操作の結果つくられたイメージが奇妙な感じをつくり出している点ではないだろうか.

アーティストの永田康祐は「Photoshop以降の写真作品───「写真装置」のソフトウェアについて」で,デジタル画像を「自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウム」と定義している.絵画においては,メディウムの物理的な性質ゆえに,筆跡や色の重なりといった「画家の労働の痕跡」が記録される.対して,デジタル画像における痕跡は「物理的な操作とは無関係」になっているとして,次のように書く.

私たちは作品の画面上に何らかの操作の痕跡を見ようとするが,そこに表示されているのは,無数の,しかし有限なピクセルの明滅のパターンのうちのひとつにすぎない.物理的なメディウムにおいて保たれていた制作過程を画面へと係留する論理は,デジタルメディアの論理に換骨奪胎されているのである.pp.98-99

村上はデジタル写真における「操作」を重要視したが,デジタル写真では「操作」の痕跡はシミュレートされたものでしかない,というのが永田の主張である.デジタル写真における「操作」の重要性は変わらないが,「痕跡」の捉え方が両者では異なっている.「痕跡」は村上では顕在化し,永田では喪失していく.永田ではなぜ痕跡が喪失するのかといえば,永田は痕跡の「重なり」に注目しているからである.物理的メディウムでは痕跡は時間の流れに沿って重なっていくのに対して,デジタル画像では重なりはシミュレートされたものでしかなく,ピクセルの明滅の配列で表現されたものでしかない.

「操作の痕跡」に対して,永田と村上とのちがいを確認した上で,ブレイロックの作品についての永田の考察をみてみたい.

デジタル画像の無時間性によるこうした奥行きの揺れは,ブレイロックの作品にも見ることができる.ブレイロックの作品には,Photoshopのレイヤー機能やクローンスタンプツール,消しゴムツールといった機能が用いられているが,その画面は,こうした機能がどのような順序で用いられたかという歴史を持たない.《Untitled》において重ねられたいくつかの建物のイメージとブラシストロークは,一見する限りは単なるパピエ・コレのようにも見える.しかし,この画面は,かつてのキュビズムの画面とは異なり,完全に前後関係の情報を欠いている.それゆえ,この画面上に見られるブラシストロークは,上に重ねられた画像を消去し,下のレイヤーを露出させるための「消しゴムツール」によるものなのか,それとも「コピースタンプツール」によって別の画像を上書きしたものなのか判別がつかない.それによって私たち鑑賞者の視線は,ルビンの壺のような錯視画像を見せられたときのように,いくつかの可能な奥行きのあいだを振動し続けることになるのだ.p.100

ブレイロックの作品はPhotoshopの機能が用いられていることは明確であり,その痕跡は残っている.永田も村上の指摘と同様に「操作」の部分に注目している.しかし,その操作がどのような順番で使われてたのかを歴史がそこにはないと指摘する.ブレイロックの作品にはPhotoshopでの操作の痕跡が確かに残っている.この「操作」の部分を強調することは,これまでの写真メディウムのあり方を考える点で重要である.同時に,ブレイロックの作品が持っていた奇妙さを考えるために,永田の「操作の痕跡はあるが,その歴史は喪失している」という指摘は重要である.その結果として,ブレイロックの作品は「ルビンの壺」のような印象を見る者に与える.つまり,重なりがの前後は「前」「後ろ」と分けられるものではなく,どちらであってもいい.それは見方でしかない.「重なりの双対性」が作品に生まれていると言える.

「重なりの双対性」が生まれるのは,村上が重要視するようにデジタル写真における「操作」の役割を認める必要がある.写真は「操作されるものとしての性質」を持つ.しかし,「操作されるものとしての性質」を操作した結果として生じるイメージでは,永田が指摘するように「操作履歴の喪失」が生じている.デジタル写真は「操作されるものとしての性質」を前面に出すと同時に「操作履歴を喪失」したイメージをつくり出し,そこに「重なりの双対性」が生まれているのである.

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