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116:二次元と三次元とが同等であるという状況が生まれる?

前回のnoteで,二次元↔️三次元と書いて,その後で歯医者に行って,歯のクリーニングをしてもらっているときに「光が波であり,粒子であるように,写真・映像も二次元であり,三次元である」と考えてしまえばいいのではないか,と思った.そして,帰り道に「重力のホログラフィー原理」を思い出した.超弦理論の研究者の大栗博司は次のように書いている.

ホログラフィー原理も双対性の例[双対性の例として「粒子と波の双対性」「ルビンの壺」が挙げられている]です.ホログラフィーというのは,もともと光学の用語で,3次元の立体像を2次元面上の干渉縞に記録し再現する方法のことです.超弦理論では,量子重力のすべての現象は,空間の果てにおいたスクリーンに投影することができ,その上の重力を含まない量子力学理論によって記述できると考えられています.これを表現するのに光学の用語を借用して,ホログラフィー理論と呼ぶのです.
たとえば私たちは,縦,横,高さで指定される3次元の空間を実在のものだと感じています.しかし,空間の果てにおかれたスクリーン上の理論から見ると,3次元の空間も,そこに働く重力も幻影だということになります.ホログラフィー原理によると,この二つの見方のどちらがより本質的かという問いには意味がなく,これらは量子重力の異なる側面を表していることになります.
重力のホログラフィー[PDF],大栗博司

理論物理学の話ではあるが,コンピュータを経由した写真や映像でも「ホログラフィー原理」と同じように二次元か三次元も単に写真・映像の異なる側面を表しているの過ぎないと考えた方がいいのではないか.

大栗は別の本で次のような例えを使っている.

あなたがいま,部屋の中でこの本を読んでいるとします.そこには当然,重力が働いているでしょう.つまり,あなたの経験しているのは三次元空間の中の重力を含む現象です.ここにマルダセナの対応をあてはめると,このあなたの経験は,その部屋の壁や天井や床,つまり部屋を囲む二次元面に投影して表現することができるということになります.しかも,三次元の部屋の中には重力が働いていますが,それを投影した二次元の壁や天井には,重力は働いていないというのです.

写真や映像が現している三次元空間と投影された二次元平面を別々のものではなく,「同等である」と考えてみる.「「同等である」とは,「物理的な現象を説明するために,どちらの理論を使って計算しても,同じ答えがでるということです」と,大栗は説明している.写真と映像で問題となる二次元と三次元とのあいだの写像ということも,同じ答えの別の見え方なのではないだろうか.

こんなことを考えていたら,過去に「インターネットヤミ市」でのレクチャーのためにつくった「忘れちゃいけない!ポストインターネットアート…」を思い出した.ディスプレイ手前の重力が作用している空間とディスプレイという重力が作用していない平面を「同等である」と考えいるのが,「ポストインターネット」と呼ばれたアート作品の特徴なのではないか,ということを考えている.

さらに,大森俊克が「立体表現としての写真───あらたな写真論へ向けて」で,エラッド・ラスリーの作品について「イメージのイメージ化」という項で,次のように書いていることも,写真における二次元と三次元とを同等として扱うヒントになると考えられる.

こうした昨今の良い例が,エラッド・ラスリーによる写真への立体物の介入の所作だろう.ラスリーは,2012年にニューヨークのオルタナティブ・スペース「キッチン」でパフォーマンスと立体造形を融合させた《無題(存在)》という作品を発表した.その後,カーペットや綿入りのシルクの布で一部を覆った,風変わりな写真作品の制作を始めている.ラスリーの近作にみられるこの形容しがたい謎めいた付属物は,写真を観ようとするとき同時に目に入らざるをえない.つまりそれは,立体であるにもかかわらず───斜めのアングルからではなく───正面からの目視を促すのだ.このことは,ハインリヒ・ヴェルフリンが「いかに彫刻は撮影されるべきか」(1896)で,彫像を撮影するに当たっての理想的なアングルは,唯一正面だけだ述べていたことを思い起こさせる.正面から観たときの線描のリズムや陰影の均衡が,彫刻の第一条件とされること───これを広義にとらえれば,人為的につくられた三次元の「物体」は,先験的に(もっぱら正面性のみを条件とする)一つの「イメージ」なのだということができる.ラスリーの写真に介入するオブジェは,そもそも立体的な対象が一つのイメージであること,つまり写真撮影とは「イメージのイメージ化」という二重の営為なのだということを逆説的に明かしている(そしてこの点において,ラスリーはかつて批評家のダグラス・クリンプが提言した「ピクチャーズ世代」の正統な後継者となるのだ).p.111[強調は引用者]

三次元的な立体像がそもそも決まった視点=正面から見られることを前提とした「イメージ」であり,写真は「立体の正面=イメージ」を撮影して,正面から見られるもう一つの「イメージ」ということになる.「正面」という視点から捉えられた場合は,彫刻と写真,三次元と二次元とが「同等である」ものとして扱われるようになると考えられないだろうか.

そして,写真はもともと見られるために最適な視点=ノーマルな位置を持つものだというフッサールのテキストを引きながら,哲学者の田口茂は次のように書いている.

この点で,像を見ることと,実在的対象の知覚とは根本的に異なる.その女性が実在する人物であり,私がその女性を実際に知覚しているのであれば,視点をずらして,横からその女性をみれば,顔を見ることができるだろう.これに対し,像を見る場合には,ある一定の最適(optimal)な視点が決まっており,その視点(正面)から見る場合にのみ,像客体を完全な仕方で見ることができる.フッサールが言うように,「事物としての写真は.そこにおいてその写真に属する像客体が現われてくるような,『ノーマルな位置』をもつ」(Hua XXIII, 491).そこから視点をずらしていくと,像客体は歪んでいき,最後には見えなくなってしまう.写真であれば,人物はだんだん平たくなっていき,最後には写真の側面が細く見えるだけになる.p.32 
受動的経験としての像経験───フッサールから出発して,田口茂

写真は正面=ノーマルな位置から見られたときだけ,二次元と三次元とを同等のものとして処理できるチャンスをヒトに与えるモノ担っている.正面からずれると,二次元と三次元との同等さは失われ,二次元のイメージは見ることができなくなり,三次元のモノが強く認識される.「正面」という視点から見たときに限り,写真に「ホログラフィー原理」が適応され,二次元と三次元とが同等であるという状況が生まれると考えてみたらどうだろうか.

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