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041:ふたつのサーフェイスのあいだで存在する空間

10月2日に開催される建築夜楽校2018・シンポジウム「建築のインターフェイス」に参加します.モデレーターの平野利樹さんに声をかけてもらって,建築家の青木淳さんと美術家の谷口暁彦さんと話します.そこで,青木さんのルイヴィトン名古屋店を見にいって,ふたつのサーフェイスの重なりからモアレという現象が生まれているのを改めて確認してきました.そのとき一番感じたのは,ふたつのサーフェイスのあいだで存在する空間でした.

外壁は二重.構造躯体の外壁から1.2m外側にガラスの壁が設けられている.ディスプレイ・ウィンドウや内照式のサインやロゴやポスターが,この隙間の空間に挟み込まれている.傘をさすための玄関の引き,地下の店舗へのトップライトもこの隙間の空間が利用されている.それら奥行きを要するものが外側に沿って設けられている.しかしダブルスキンのおかげで,室内は純粋無垢の箱のまま残される.内装には制約を与えない.pp.44-45 
そうして,それ以外のダブルスキンの領域のすべてをモアレの境界面としてつくる.外側のガラスには透明と乳白半透明の市松模様が施され,内側の躯体外壁には同サイズの白と焦げ茶の市松模様が施される.ふたつのパターンが重なって,実際には存在しない第三のパターンが浮かびあがってくる.もちろん建物は動かない.しかし僕たちがこの建物の前を通りすぎるに連れ,その動きに合わせてパターンが動きだす.昼間だとそこに空が映り込んで,より複雑な状況が生まれる.少し離れて見ると,奥行きの感覚は失われている.素材感が失われている.たとえていえば霞のよう.そこに蜃気楼のように,ディスプレイのシーンが浮かぶ.p.46

1.2mある「あいだの空間」がふたつのサーフェイスをくっつけ,モアレを生み出して,ひとつのインターフェイスとして機能する.「あいだの空間」はあるけれど,モアレが生まれてふたつのサーフェイスがひとつのインターフェイとなるときにはほぼないことになる.建物に近づいていくと,モアレが突如なくなって,ふたつのサーフェイスとその「あいだの空間」が見えるようになる.そして,「あいだの空間」があるのなら,そこに入れるのではないかと思えてくる.

「あいだの空間」は確かにそこにあって,物理的なモノが設置されているけれど,ヒトが自由に入り込める場所ではない.モアレという現象を知覚するヒトのなかでは「あいだの空間」は消失していて,そこに入る隙は残されていない.そして,ディスプレイがつくるガラス面とピクセル面とのあいだの空間もまた入る隙を,ヒトに示すものではない.しかし,この「あいだの空間」に入っていったのが,谷口さんの《私のようなもの / 見ることについて》のような谷口さん自身のアバターが出てくる作品なのではないかと考えてしまう.

この10年間の作品を,時間と空間と「ディスプレイ」の問題として振り返ってみた.こうして見えてきたのは,なんらかの計算処理によって,リアルタイムに生成されるものは当然ながら,過去の出来事すらも「現在」として生起してしまう場としての「ディスプレイ」という存在だ.そして,その「ディスプレイ」を,外の物理世界と繋げてみたり,それ自体を物理的な板として使ってみたり,折り曲げたり,くしゃくしゃに変形していた10年だった,ということなのかもしれない.

谷口さんは「ディスプレイ」というインターフェイスを扱いながら,ディスプレイが持つ物理的厚みのなかに押し込められたコンピュータの計算とピクセルの明滅とがつくる3D空間を押し広げたり,折り畳んだりしていたように思える.そして,遂にというか,そうなることが当たり前のように,谷口さんはディスプレイの厚み以上に3D空間を押し広げて,「あいだの空間」に自分を入れていったように感じられます.

私は「あいだの空間」を,ウィンドウの影として捉えていたような気がします.デスクトップメタファーでウィンドウの重なりを示す「影」はフィクショナルな存在でですが,「影」があることで,そこにはじめて「あいだの空間」が生まれるのです.私は「あいだの空間」を「透き間」と呼びました.

ヒトはハードウェアとソフトウェアという二つの層の重なり合いに対応するマウスとカーソルを使い、重なるウィンドウをかき分けて情報を探索しながら、ディスプレイのXYグリッドに基づくフィクションとしての空間のなかで行為を遂行している。ウィンドウとウィンドウとのあいだ、ウィンドウとデスクトップとのあいだに隙間はないけれど、それらは重なり合っているものとして処理される。ウィンドウの重なりを示すために、黒色のピクセルで「影」をつくるなどしてフィクショナルに処理された隙間を、「透き間」と呼びたい。透き間は確固としたモノではなく、影のようにモノに依存した存在である。影はモノがなくなれば消えるけれど、透き間はモノというハードウェアの有無だけでなく、ソフトウェアによって描写が変更されるだけでも消えてしまうため、影よりも儚い存在である。

マテリアルデザインでは「影」は,サーフェイスの高さを厳密に示すものとして規定されていきます.サーフェイスが重なるということは,その世界に「高さ」があることであり,「高さ」の厳密な設定を示すのが「影」の表象ということになります.マテリアルデザインではデスクトップメタファーが示したような「あいだの空間」を実体化させるような「透き間」はないと言えるでしょう.そこにあるのは厳密に設定されて環境を構成する要素となった「高さ」と,そこから派生する「影」の表象です.マテリアルデザインでは,影によってはじめて「あいだの空間」が実体化するのではなく,影は環境の要素として扱われるのです.そこにあるはウィンドウの重なりを実体化する「透き間」ではなく,高さのちがいが機能のちがいを示す別の環境に属する「あいだの空間」なのです.それは,スマートフォンのなかで「あいだの空間」が自律的な存在として定義された状況だと言えるでしょう.スマーフォンは物理世界に従属するのではなく,別の環境として「あいだの空間」が出来上がり,その空間をデザインするようになっているのです.

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