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089:テクノロジーと文化遺産の輪廻転生

エキソニモへのインタビューがきっかけで,テクノロジーと文化遺産について「瀬戸の風景」という展示で映像トークをすることになった.

高度経済成長の断絶

文化遺産を考えるときに「高度経済成長の洗礼を受けたか否か」に一つの節目があるというテキストを読んだ.そこには次のように書かれていた.

いわゆる高度経済成長以前の時代は,どのような変化と発展の歴史の中でも,町や村に住む人々の日々の暮らしの位相では,何か一つのアイデンティティの持続というか,永い世代にわたる文化の継承があった.いうところの高度経済成長下の社会の急速かつ激烈な変容は社会や文化のあらゆる位相において,こうした持続や継承を決定的に断ってしまったのである.pp.134-135
文化遺産の継承と「文化財学」 後藤宗俊

高度経済成長が文化の「継承」を断絶してしまったとすれば,今,文化遺産というモノの集合体に触れて,私たちはそこから何を感じたり,考えたりすることができるのであろうか.現在は,高度経済成長のあとであり,インターネットのあとでもある.高度経済成長は大量生産というモノが支配的であったのに対し,インターネットのあとではモノよりも膨大な情報が支配的になってきている.ここにはモノから情報へ支配的な存在の変化があり,大量のモノがこれまでの文化を「断絶」した先で,膨大な情報が断絶後の文化を再度「断絶」しているのだろうか.

文化遺産というモノの集合だけを見ていても,そこには単に二重の断絶を見るだけかもしれない.それは,そこから何かを感じたり,考えたりすることが難しくなっていくことを意味しているように思われる.では,文化遺産をどのように伝えていけばいいのだろうか.

エキソニモの赤岩やえは冒頭のインタビューで次のように話している.

赤岩 本物の《モナリザ》を見る,という体験は,時代や技術の変化によってつねに変わり続けているんだと思います.最高にメンテナンスされた本物の《モナリザ》であっても同じ存在ではあり続けられない.たとえ修復し続けたとしても,物質として変化するだけではなくて「《モナリザ》を見る」という体験自体がどんどん変化しているんですよね.物質をいかに維持するかというのが旧来の保存の考え方だけど,そういった行為や体験も含めて考える必要があるんじゃないかと思います.

赤岩が言うように,「『文化遺産を見る』という体験自体」をアップデートすればいいのかもしれない.文化遺産の物資的側面ではなく,そこに付随する行為や体験を考える.ここで,私はダグラス・エンゲルバートがコンピュータを使って,ヒトの知能を補強増大しようした試みが,文化遺産にも必要なのではないかと思った.文化遺産を単に保存するのではなく,文化遺産とそれを体験するヒトとが共進化しなければならないのではないか.

ヒューララ感覚

ヒトと文化遺産とが共進化すると書くとき,テクノロジーはヒトの感覚を補強増大していくと考えてみるといいかもしれない.では,テクノロジー,特に,コンピュータが切り開く感覚とは何か.それはメディアアーティストの藤幡正樹が「ヒューララ感覚」と呼ぶような,どうしようもない「儚さ」なのではないかと思う.

藤幡───例えば,ワードプロセッサで3時間かけて文章を書いて,フロッピィ・デスクにしまわないで電源を切ってしまった時とかです.僕はそれを相原コージの漫画からとって「ヒューララ感覚」と呼んでいるけれど,あれはもう坂口安吾や太宰治の虚無感ではない.みんな体験していると思うけれど,本当にもう虚数の世界に入ってしまう感じ.だから,作った時ではなくて,なくなった時に強烈に感じるあの感覚の延長が,これからもっと押し寄せてくる.オプティミスティックにいえば,そこに巨大な地平が開けているという人もいるし,もうやめてくれという人もいるし,エンデみたいな人もいる.

コンピュータとともに「ヒューララ感覚」のようなこれまでにない「儚さ」を,私たちは手にしたのではないだろうか.エキソニモの千房けん輔は,Yahoo!のジオシティーズが閉鎖されたことついて,「ジオシティーズが終了になってすべての“ホームページ”が跡形もなく消えてしまう.シティーズ,つまり街が丸ごと消滅してしまうようなものです」と述べている.私たちは,跡形もなく「街」がなくなってしまう時代に生きている.

その「街」は情報,仮想のものだと言えるかもしれないが,そこには紛れもなく「体験」はあったはずである.『融けるデザイン』で渡邊恵太は次のように書いている.

今,私たちは,情報だからといって虚構を体験しているとは思わない.物質だからといって物質的価値を体験していない.体験から考えれば,情報と物質の分別はあまり意味がない.物質のほうがリアルだと思っているが,身体は物質的でもあるし情報的でもあるから,物質か情報かは重要ではなく,体験の質が重要になる.だから,「体験の側」から設計するという発想が効いてくる.物質であろうと情報であろうと機能であろうと,あるいは自然だって,人間が相手にするものは何であったとしても,すべて知覚と行為,活動を通じてそれを関わる.体験は,そこに生まれる.p.220

跡形なく消えてしまうのも体験であり,ヒューララと跡形もなく消えてしまう「街」で感じたこと,考えたことも体験である.そして,今も残り続ける文化遺産を感じることも体験である.すべては体験である.そして,今の私たちの体験は「ヒューララ感覚」をどこかで経験している.どこかで全てが本当に消え去ってしまうことを感じてしまっている.ヒューララ感覚をモノにも適用するようになっているのではないか.だから,文化遺産も消失していく.いや,文化遺産はモノとしては残っているけれど,実は,そこでは当時の体験が消失していて,同時に,今の体験もまた過去を前にして一切消失していると考えられる.文化遺産にはモノだけがあり,体験が一切消失してしまっている.この消失感の体験を起点にして,文化遺産に関するモノと情報とを同じ地平で扱えるようになっているのではないだろうか.

魂の継承

エキソニモは「作品の魂の継承」を掲げて,「メディアアートの輪廻転生」展を企画した.文化遺産に必要な視点も「魂の継承」にあるのではないだろうか.残されたモノとそこから派生する情報から,いかにバージョンアップした体験をつくりだし,魂を継承していくのか.メディアアートがソフトウェアとハードウェアとに明確に分かれているからこそ,「魂=ソフトウェア」の部分を考えることはとても重要となっているのと同様に,文化遺産の「魂」はどこにあるのかを考えなければならない.そのためには文化遺産に一度「死の宣告」をしなければならないときもあるだろう.モノの集合体としては残っているけれど,ヒューララと消失してしまった文化遺産の「魂」を信じて,復活させるのに,ヒトに「ヒューララ感覚」をはじめて示したコンピュータを中心としたテクノロジーは役立つだろう.「ヒューララ感覚」と慣れ親しんだ私たちは,モノを起点としながらも,モノに依存しないあらたな体験をつくりながら,あたらしい文化遺産のあり方を考える時期に来ているのである.


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