【感想】みや『友達だった人』

(ご注意ください:未読の方の鑑賞を損なわないよう注意していますが、作品の内容について一定触れています。)

部分ツイートという言葉をご存じだろうか。あまり一般的な言葉ではない。ある言葉の中に別の言葉を見つけて「◯◯の◯◯の部分」の形にしてSNSなどに投稿する、言葉遊びの一種である。とくにtwitterでの投稿(ツイート)でよく見られたことでこの名がついている。noteの音の部分。農作業の野ウサギの部分。例はこれで十分だろう。単純すぎるほど単純な遊びだが、うまく行ったときの爽快感は大きく、馴染んでくると日常の風景の中についつい「部分」を探してしまう中毒性がある。「フタバスズキリュウのバス好きの部分」や「多摩ニュータウンのたまに言うの部分」のような名作を思いついたときには、電車の中で一人でニヤニヤしてしまう(評価は、人それぞれでいい)。

この言葉遊びにはもともとはっきりした名前がなかった。「空手に隠されたラテの部分」とか「鍋焼きうどんに潜む、野球の部分」みたいな発見をダジャレめいたネタとして発信したことがある人であっても、部分ツイートと聞いて「何それ」と思う人はいるだろう。それに加えて、twitterがXになってから、公式にはツイートという言葉が使われなくなってしまった。部分ツイートという名前は、はっきりと認知される前に根拠を失ってしまった言葉で、どこか頼りない感じがする、と私は思う。

名前の話だけではない。部分ツイートで何かまとまった主張とかメッセージを伝えることは、まあ難しいだろう。では部分ツイートは詩だろうか。「リモートワークの永遠(とわ)の部分」や「テトリスの鳥の部分」には何か詩情が生まれているかもしれないが、詩「っぽい」だけで詩ではないと言われたら、はっきり反論する根拠は私にはない。言葉をバラバラにして別の言葉を取り出して見せて、それにいいねが付いたり付かなかったりする。ひとまずはそういう単純で素朴な営みがただそこにある。表現や創作と言えるかどうかは怪しいような、小さなユーモアや発見をやりとりするだけの、言ってしまえば取るに足らない言葉遊びである。

みや『友達だった人』は、このいかにもささやかな部分ツイートという営みが作中に描かれた、おそらくはじめてのマンガ作品である。

正確に言うとこのマンガは部分ツイート自体というよりも、SNSで生まれる他人とのつながりを描いた作品と言うべきで、「部分ツイートのマンガ」とだけ表現すると、この作品の重要なところをとらえ逃すと思う。それでも、部分ツイートの部分ツイートらしさが物語に効いているマンガであることはたしかであり、部分ツイート好き、かつ、マンガ大好きの人間としてはそれがとてもうれしい。そのあたりを感想として書いておきたい。

サンプルで公開されている程度のあらすじを紹介しておこう。この漫画の主人公・森本は、部分ツイートを日常の小さな楽しみとして日々を過ごしているオフィスワーカーである。電車の中でふと思いついた部分ツイートをつぶやいたり、いったん下書きに保存しておいて後で投稿したりする(かなりやり込んでいる人の仕草だ)。森本はtwitterで同い年の「ささみ」という名のアカウントと相互フォローになり、いいねを交換する程度の関係になる。それが二年ほど続いた後、森本はささみが癌のために余命一年を宣告されたことを、ささみのツイートで知る。そのときはじめて森本はささみにリプライを送り、それにささみが部分ツイートを添えて応答する。それがきっかけで、二人の距離は少し縮まることになる。気安く言葉を交わし、ときに部分ツイートを送り合う間柄になったのだ。この物語は、森本がささみの葬儀の受付で御芳名カードに記入をする際に、自分とささみの「御関係」をどう記入してよいか手が止まる場面からスタートする。「会社」、「友人」、「親戚」、そして自由記入欄として用意された空白。読者はこの作品のタイトルを見て、その「御関係」の答えについておおよその期待を持って読み進めるだろう。森本とささみがtwitterで過ごした日々がどんなもので、葬儀の日にどんな出来事が起きて森本がその答えにたどり着くのか。ぜひ本を手にとって読んでほしい。

先ほど「部分ツイートの部分ツイートらしさが物語に効いている」と書いた。それはこの文章のはじめの方で書いたような、部分ツイートという言葉遊びの取るに足らなさが、このマンガで描かれているSNS上での人のつながりのか細さ、頼りなさにどこか似ている、と思うからだ。

森本が葬儀の場で「友人」にチェックを入れるときに手が止まるのは、森本がささみの本当の名前も知らず、一度も会うことのない関係だったからである。いいねを交換した。相手が好きそうな話題をリツイートして、反応を楽しみにした。相手のネイルの写真にいいねして、自分が部分ツイートの自信作を投稿した後にはいいねしてほしいなと期待した。それが、その程度のことが、友人と言うに足る関係なのだろうか、と思ったからだ。家族や恋人、親友のような、重く、密な関係に比べれば、SNSでメッセージやいいねを交換しただけの関係など取るに足らないものかもしれないと森本には思えたからである。

しかし、である。twitterのbio(プロフィール)に「ここでは毒しか吐きません」と書いたささみにとって、twitterは安心して毒を吐ける場所ではあったのではないだろうか。それをとくに深刻に受け止めるわけでもなく聞き流してくれる、遠いようで近いようで、詳しい素性はお互い知らない森本のような人がそこにいたことは、ささみにとって取るに足らないことでは「なかった」のではないだろうか。twitterに投稿した素朴なユーモアをきっかけにして、突発的にはじまる他愛のないやりとりを他の誰かと分かち合ったりすることは、ささみが残り少ないことを意識して過ごした日々の中の、小さくて固い部分を成していたのではないだろうか。勝手にささみの心情を想像しすぎかもしれない。何せ読者は森本よりもはるかに、ささみのことをわずかにしか知らない。しかしそこにあったかもしれない経験を容易に想像させる彼らのやりとりは、SNSをやめられない人間にとってはとても身近で、身に覚えがあり、リアルだ。

SNSで生まれるつながりは、本当にか細く、頼りなく、うつろいやすい。このマンガは、森本がささみの方にもう一歩、踏み出すことを選ばなかったことも描いていて、その関係の弱さの方に視線を向けることも忘れてはいない。その上で、小さなユーモアと小さなコミュニケーションが私たちにもたらしてくれる、やはり小さな、でもたしかに存在する価値を穏やかに繊細に描いていた。

森本とささみのその小さな関係をつなぐ役を果たしたのが、取るに足らない言葉遊びである部分ツイートだなんて、なんともぴったりではないだろうか?


(通販や電子書籍などの情報は、作者の方がこちらで発信されています。)

https://twitter.com/tukutyan/status/1769652166518767752?t=fB3d9YCgxOPn1KXhpWH99Q&s=19


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