演劇、夢

演じる、ということは、イメージを身体の運動に落とし込むことだが、それは同時に、イメージに身体性という汲み尽くせない潜在性を与えるということでもある。

イメージは、演者の動きと観客の視線が交叉する場所に現れる。その場所とは、「舞台」のことである。
演じるとは、動くことと観ることとが参照し合い、肯定し合い、乗り越え合う運動性を、「舞台」において実現するということである。

演者とは「舞台」をその動きにおいて身体化する者であり、観客とは演者の動きをその眼差しにおいて「舞台化」する者であり、演者と観客は「舞台⇆身体」を共起させている。

「舞台⇆身体」においては、動きと眼差しは常に二重化され、もはや演者と観客の別もなくなっている。
演劇とは、動くことと観ること、実践とイメージとが、相互参照し合うような、可塑性の高い時空を開くということなのである。

その媒体的な時空、即ち舞台上において、人は、つねに何か別のものになろうとする過程の、二重化された存在となる。

例えば、能でも歌舞伎でも「見巧者」と呼ばれる存在がいて、彼等は自ら演者ではないが、“演者であるかのごとく”、全身全霊の参与を以って舞台を観る。生半可な演者以上に、その「舞台⇆身体」の創造過程に深く参与していると言い得る。

同じく、能で「離見の見」ということが言われるが、演者も、役を全うするには、ただ役に成り切るだけでは不足で、成り切る自身を観る視座を保っていなければならない。

観世寿夫は、「離見の見」について、「自分を役でいっぱいにしながら、同時にその自分を客観的に制御している」という状態だと説明する。ー「そのうえで演じることにより、舞台に表出される以上の、謡の行間や、動作に表れない背後のものを感じとらせる演戯を創るべきだということではないであろうか。」

見巧者と名演者が交叉するところに、最上の舞台、身体即イメージの時空が開く。
実践(創作)と視点(批評=視点の明確化)の最も本質的な関係とは、そうした創造的な協働性のうちにある。創造的な協働性が実現すれば、それは舞台上のイメージを明確化する効果を発揮する。

舞台とは、実践即観相が成り立つ中有の場である。
演者は演者即観客として、観客は観客即演者として、皆二重化されていなければ、舞台に出ることも観ることも適わない。

舞台で動いているのは、徹頭徹尾イメージなのである。演じることも観ることも、言わばそのあわいにイメージを協働的に立ち上げる儀式的所作である。
よく、舞台を「夢のような」と形容することがあるが、いや、舞台とは「夢そのもの」なのである。

さて、以上をまとめると、演劇も夢も「眼差しと体験が共起的に二重化される事況」である。そこで動いているのは、その場に参与する全ての主体の統御を離れた「自律的なイメージ」だ。
言わば、自律的なイメージが準ー主体となる「場」が演劇における「舞台」であり、夢という「フレーム」である。

逆に言えば、「眼差しと体験が共起的に二重化される事況」が整いさえすれば、そこに「自律的なイメージ」が発生する。「妖怪」も「神」も「女」も、そのように発生する。

世阿弥の「離見の見」ということも、「眼差しと体験が共起的に二重化される事況」を実現するためのコツのひとつである。「私が私である」という日常のケの世界の常識を解除したところに実現する、ある変容意識状態について語っている。

「浮き身」ということもまた、「私が私である」という再帰性の解除のための技法のひとつだ。
坪井香譲は、『呼吸する身体 武術と芸術を結ぶ』で柳生流に伝承される「浮き身」の要領について書いている。それによると、柳生流では、「浮き身」の要領を「腰が宙から一筋の縄で吊るされたような身」としているのだそうだ。
こうイメージすると、動作の支点が身体のどこか一点には置けなくなる。すると、自分へのとらわれが減じて、「無我」の動作になりやすくなる。

これは武道の例だが、演劇でも同じことであろう。
逆に言えば、自我へのとらわれとは、つまり身体運用における支点へのとらわれなのである。「浮く」とは、この支点の意識をできるだけ解いていくことなのだ。
実際にやってみればよい。「浮く」ということが実感できれば、私への固着は身体感覚として薄れていく筈だ。

「浮き身」の体感が実感できると、支点へのとらわれとは、物や自然への対抗への固着であると知れる。
浮き身とは重さや重力といった自然へからの働きに対抗するのではなく、むしろ重さに即して重さを活かす、という体勢に他ならない。
最終的に目指されるのは、「釣り合い」ということである。

武術をはじめあらゆる人の営みも、身体と心を貫く「釣り合い」を目指すのだ。平板で固定観念に縛られた見え見えの調和などではない。いわばキレキレの釣り合いだ。
どんな変化も受容し、応じてゆく「深さ」と「活力」のある釣り合いの働きと一致してこそ飛翔は可能になる。そこにこそ、自由の風、とらわれのない「歌」が響き出す。

身体から支店を外していき、私への重心を解除する。そうすると、「私は私である」という再帰性の軸は失われ、イメージが私によって操作されるのではない、イメージ一元論的な世界が現出する。つまり、夢の世界である。

ところで、イメージ一元論的な世界における自律的なイメージとは、即ち「霊」である。
「霊」のリアリティとは、自律的なイメージのリアリティであり、夢ー演劇のリアリティである。

人類学者のレーン・ウィラースレフは、人間と動物が狩という「相互模倣的な状況」に没入する体験のなかでのみ、アニミズム的な霊がリアリティを獲得すると説いた。
人間は狩を成功させるために、動物を「誘惑」する。動物になりきること、つまり自己を私ー動物に二重化すること、そのような「演劇的な場」に動物を巻き込むことで、人間と動物が交叉する状況をつくりあげるのである。そこに、霊=自律するイメージが立ち現れる。

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