数学的直観

1.数学的直観

鈴木俊洋『数学の現象学 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』(法政大学出版局)。
サブタイトルにあるように、フッサールが現象学を構想したのは、もともと数学における「直観」の問題を扱うためであったということを、近現代の数学史を追いつつ論じた論文である。
ここでは、この名著から、そもそも「直観」とはどういった機序の働きなのか。現象学によって、その機序がどのように明らかになるか、という理路の箇所だけを抽出する。

数学研究者は、よく「考えもしないのに次々と新しいものが見えてくる」経験について語っている。
数学における「直観」の本質的な重要性は、専門的な数学者でなくとも体験的によく納得し得るところである。
数学では、一定の訓練を繰り返すと、あるとき、例えば微積分なら微積分の全体が一気にわかるという経験が訪れる。
これはじつのところ、例えば練習を繰り返すことで、あるときふっと自転車に乗れるようになる、ということに等しい。
学問分野でも、数学に限ったことではないが、数学においては、その形式性の純度が高いことから、より明確にその直観の働きが実感される(つまり、理解度の差がより明確に感じられる)ということであろう。

現象学を数学的直観の基礎づけとして理解するという視座は、他の分野での直観(勘、コツ、感覚的把握、等)を説明する図式にそのまま使える。ポランニーの暗黙知理論、ハリー・コリンズの専門知論、アクター・ネットワーク理論のラトゥール等の言説も、その根源から統一的に捉え直すことができる。

2.数学史における二つの立場、形式主義と直観主義

近現代数学史には、二つの立場、形式主義と直観主義とがある。
形式主義とは数学の根拠を、同値関係に基づく公理系における差異の体系への適合性に求める。これに対して、直観主義は、数学の根拠には何か具体的なものからの「抽象」があるのだと考える。

形式主義的数学観の主張は、次のようにまとめられる。

1.数学の全体系あるいは数学の各分野の体系は一連の公理とそれからの論理的帰結によって決定されておりそれ以上でも以下でもない。数学とは設定された公理系における定理の証明を扱う学問である。
2.公理的に定義される数学的概念は具体的事物のあり方とは無関係である。公理的な定義はその概念の他の概念との関係形式を表現しており、数学的概念の規定はそれで尽くされている。
3.したがって、公理やそこから論理的帰結によって導かれる定理などの数学的命題は内容を持たない形式的なものであり、その真偽はそれ独自に決定できるものではなく、公理系に従属して始めて意味を持つ。つまり数学的命題が真であるとは、ある公理系においてその命題が定理として証明できるということであり、偽であるとはその命題の否定が証明できるということである。

この立場の問題点は、

1.様々な数学的概念や定理の間の親疎関係や価値の違いが説明できない。
2.実際の数学において完全に自由な公理の変更が起きないことを説明できない。
3.形式主義的数学観によれば数学は壮大なトートロジーになってしまう。

一方、直観主義(プラトニズム)的数学観とはどんなものか。

1.数学的対象はそこにある。数学者の仕事はそれらの対象を記述しそれらについて理論を立てることである。そして一般的に言えることだが、同じ対象を記述するのにはさまざまに異なったやり方がある。人はそれら数学的対象について様々な推測をする。その推測は正しいとされることもあれば間違ったものとされることもある。しかし、もしある数学的定理がひとたび証明されたなら、その定理は後に間違っているとされることはない。
2.数学の真理は、他の経験科学の真理と違って、偶然的ではない。問題は未決であることはあるが、確定した答えを持っている。ただその答え自体は発見されるかもしれないし、発見されないかもしれない。
3.このような数学的真理の際立った特徴は、数学的対象の領域が経験科学の対象領域とは異なる性質を持っていることに由来している。数学的対象は世界be warldの中に存在するのではなく、数学的対象のなす独立した領域realm of their ownに存在する。

そして、このプラトニズム的数学観の問題点は、

1.数学的世界があらかじめ出来上がっている固定した世界であることを主張している。固定した数学的世界という考え方は、形式主義的数学観が説明できなかった現行の公理の固定性を確かにうまく説明するが、逆に、幾何学における平行線公理のように、いくつかの公理については変更が可能であり、変更された公理系の研究が有意味となることを説明できない。
2.もう一つの問題点は、数学的世界が我々の住む普通の世界と異なる世界を形成し、数学的世界は普通の世界と並んで別の世界として存在しているという点である。そもそもこのような世界がいかなる形で存在しているのかという疑問は置いたとしても、このように考えると、日常世界を扱う経験科学の専門家に対して数学の専門家だけは特別な認識を持っている専門家ということになる。しかし、我々は様々な専門領域の専門家は特殊な知識とその領域での直観を持っていると考えているが、その中で特に数学の専門家のみが根本的に異なる知識と直観を持っているとは考えていない。 

3.第三の立場としての現象学的数学観

さて、ここで、フッサールはプラトニズム数学観と同じように、「数学的世界」の存在を前提することで形式主義数学観の問題点を解消するのだが、彼の現象学的数学観は、プラトニズム数学観とは異なった機序を持つ。

公理系が形式的に解釈された後でも、やはり数学者が扱っているのは、空虚な記号としての公理系そのものではなく、公理系が「表現しているなにものか」でなくてはならない。実際の数学者たちの証言を待つまでもなく、公理的手法を標榜する現代数学においてもそこで扱われているのは、空虚な記号ではなく、それの表現している「なにものか」であり、それこそが彼らの数学研究の導きの糸となっていると思われる(…)。

4.近位項(個物)/遠位項(多様体)ー現象学における「対象」概念の要請

フッサールは、「多様体」概念を使用して、この「なにものか」を表現している。
フッサールは、プラトニズム的な素朴具体物からの抽象直観を数学から排除することには賛同するが、数学から直観そのものが排除されることには賛同しない。それでは「何が」直観されるのか。「多様体」である。

つまりフッサールにおいて「多様体」概念は、数学における直観的要素の確保のために導入された概念である。だとすると、「多様体」は「直観」される何ものかでなくてはならない。では、「多様体」が、あるいは純粋な形式が「直観」されるとはいかなることか。

まさしくこの問いにおいて、現象学的対象の概念が要請される。「多様体」とは、素朴な実体としての「対象」ではない。それは、公理系や諸々のモデルなど多様な「与えられ方」を「近位項」として統一し、一つの認識を成立させている「遠位項」である。

「多様体」は、公理系という記号表現を介して与えられることもあるし、「モデル」を介して与えられることもある。しかし、「多様体」はそれら「与えられ方」の全体でもないし、その中の一つでもない。それらすべてと区別され、それらの「担い手」としてそれらを統一している認識の「遠位項」である。例えば我々は、三次元ユークリッド「多様体(「」つきである)について考える際に、言語によって表現されるユークリッド公理系を介して考えたり、実際にイメージされる三次元空間を介して考えたり、実際に表象されている空間の中での(不完全な)点や線の操作を介して考えたりする。「多様体」を対象として把握するとは、それら様々な「与えられ方」を何かの「与えられ方」として把握することに他ならず、その何かにつけられる名前が「多様体」である。

我々が「ユークリッド空間というモデル」「ユークリッド幾何の公理系」、黒板に描かれた不完全な三角形を、すべて同じ何ものかの現れとして認識できるのは、それらが並んで近位項として機能しているからであり、つまり、それら近位項を統一している遠位項「多様体」が設定されているからである。

「近位項」をまとめる「遠位項」が作動していない状態は、先天盲開患者に与えられる視覚刺激が、像を結ばず、ただランダムな光のうつろいとしか捉えられないことに等しい。遠位項が設定されないと、近位項も対象として把握されないのである。

ここで、すこし寄り道すると、ハーマンやガブリエル等新実在論が想定する「実在」概念も、ここでフッサールが「直観」を担保するために導入した「多様体」概念と、同じステータスにおいて捉えられる。そもそもハーマンはフッサールの独自の解釈から「実在」の根拠を導出していたのだった。

5.「実践」において「創造」される「数学世界」

現象学的「対象」は、「近位項」をまとめる「遠位項」の直観的把握とセットで与えられるものである。このことは、「数学的世界」が超越的実体はなく、「生活世界」からの実践的導出であるという理路を導く。
実践的、という含意が、非常に重要なポイントとなる。
著者はエンリコ・ジュスティの
数学は自然の娘でなく、技芸の娘である。」というテーゼを引く。
ここに、現象学的対象がプラトニズムと根源的に異なるポイントがある。

フッサールは、幾何学対象の発生源を測地術という「技術」の中にあると説く。(…)
注目すべきは、フッサールが単純に自然の中の比較的平らな事物の「平らさ」や比較的まっすぐな事物の「まっすくさ」の極限として平面や直線が発生すると言っているのではなく、まっすぐなものをさらにまっすぐにし、平らなものをさらに平らにする、という技術的な行為の中で極限形態が予示されると語っていることである。フッサールにおいても幾何学的諸概念の発生源は、「自然」の中にあるのではなく、「技術」という行為の中にある。

なぜ、このことが非常に重要なポイントになるかと言えば、数学的世界が、「自然」からの抽象というスタティックなモデルではなく、まさしく測量という実践から「創造」される「遠位項」において成り立っているということを意味するからである。

測量士は、杭や網を「できうるかぎり〇〇にしたい」という「背景的方法」をもって扱う。背景的方法は明示化されず、意識にはのぼらない身体知ー暗黙知として作動している。この身体知ー暗黙知として作動している背景的方法を、図として浮かび上がらせる、その「極限理念」こそが幾何学的的概念である。
つまり、「数学的世界」も、言わば身体知ー暗黙知の作動による「創造的」な知であり、超越的なステータスのものではない。
かくして、現象学〜実在論は、素朴実在論とは異なった形で、超越性という二元論を否定する。
著者は、現象学的「対象」が、排中律に則ってはいないことにも論を伸ばしている。

現象学でいう近位項の遠位項(多様体)における統合の問題は、マルブランシュの機会原因論と、その理路の構成は同じだよね。
この視座に置くと、「直観」「構造」「アナロジー」「模倣」「実践」「創造」といった諸主題を、それこそ「近位項」として成立させる「遠位項(多様体)」が直観できる。

6.個物と多様体

さて、以上が鈴木俊洋『数学の現象学 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』から「直観」ー現象学的「対象」が導かれる理路の抽出である。
この後は、私が、この現象学的「対象」の考え方を敷衍して、個物と多様体の関係について思いついたことのメモである。

・「これとあれは似ている A≒B」という場合、「何が」似ているのか。アナロジーとは、感覚的形相の相似性でも、言語的換喩性でもなく、或いはそれらを含み込んだ「多様体」の創造的「直観」のことではないか。
これは、同値関係をその基盤に持つ公理系の無矛盾性に根拠を置く現代数学が、A≒Bという準同型を成り立たせる創造的直観によって更新されていくという問題で、このことは、ゲーデル的問題に直結する。

・ここで、「多様体」は、生物における「胚」或いはIPS細胞のようなものである。あるいは、幹-形而上学の「幹」ということ。それは「元型」ではなく、個別のものの個別性(現象学的には「近位項」)を成り立たせる統合性のことで、しかもこの統合性は個別のものの個別性に含まれる(相互包摂している)。

・マイケル・ポランニーが、「原理」を「直観」したければ、「個物」に注意を向けること、といった「認識」「理解」の機序も同じことである。

・現象学の「生活世界」を、「社会」ではなく、単に「一元論的トポス」と捉えると、数学を含む「経験科学」における「多様体(原理、形式、…)」が一切特定の「実践」を背景にした「創造的=制作的」なものであることがクリアに解ける。

・「経験科学」とは、そのまま、私たちの生きる実存のことでもある。私たちの生きる実存は、特定の実践においてのみ、つねに必ず内在的に現れる。実存とは、つまり、内在の外に立つことはできない、という、そのことである。

・多様体が創造的なものだとすれば、例えば位相幾何学が「創造」されることで、形/空間の「現れ」が変わったように、より包括的且つ厳密性をもつ多様体が創造されることで、個物の「現れ」自体が変わる。

つまり、やはり、実存者は、世界の汀に立っている。

私/社会(歴史)などは仮設的なフィクション(幻想)でしかない。
実存者の個物/多様体の創造的更新にとって如何なる重要性も持たない。

・数学で、「予想」が直観されるのも、つまり、そこで“先ず”多様体が創造されるからだ。「予想を解く」とは、多様体と近位項である個物を繋いでいく、その理路を組み立てるということである。つまり、準同型として把捉された「イメージ」を、同値関係の成り立つ「構造」に変換していく作業である。

・岡潔が、数学的発見において「情」が重要だと説いたのも、つまり、新しい多様体を創造するには、近位項である個物の解像度をより高めていくしか道はなく、より厳密に個物に即するにはそれだけその個物への「情」が深くなければ為し得ないと捉えれば腑に落ちる。
ここで、創造とは、いかなる主体の恣意、自由も排したところで、個物の解像度を高めていくことを通して、初めて透視できるより包括的な「多様体」のことである。
だがより包括的とはいえ、個物は個物である限り多様体に解消されることはなく、つまり汲み尽くせない。創造性は尽きることがない。
つまり、「情」も薄れることはない。汲み尽くせない個物に、自身汲み尽くせない個物として交わるとき、その交わりを促す「情」が深いほど、より相互の解像度は高まり、イメージは厳密に作動する。多様体の創造によって個物の現れが変わるとは、個物の解像度がより高まるということである。

・多様体は、イデアの如くスタティックな実体として時空の外に在るのではなく、むしろ我々の凡ゆる経験それ自体が、高次元の多様体として捉えねばそもそも経験として統合されないような形で、身体論的或いは意味論的に想定されるのだった。
つまり、そもそも個物として現れるものは、一切が多様体と相互包摂した存在様態をもって実在する。
“だから”、例えば、数学者は数学的形式性を「直観」することができる。或いは、人間が文法構造を“一挙に”取得するのも、その存在様態に根拠を持つ。

・個物と関係形式は相互包摂的だが、しかし「確定的に」相関しているのではない。だから、個物はあくまでも当該の個物として対象性に“開かれて”おり(対象性=オプジェクト性に「開かれている」ということが、つまり「退隠している」ということ)、多様性もまた同じように対象性に“開かれて”いる。

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