Chance operation 偶然を操作する

1.偶然に開かれたポテンシャルを常備する

例えば、互いに憎からず思っている男女がいる。
男が女の部屋に遊びに行く。
終電近く、帰る頃になって、急に物凄い豪雨が降り始める。
窓外を見つめる二人。
女の子が「…泊まってく?」

こうした「偶然」は常に起こる。「豪雨は降る」のである。
つまり「ふたりが憎からず思い合っている」という状況があれば、あらゆる突発時が、ふたりの関係の距離を縮める「偶然」として作用するということだ。

chance operationー偶然を操作するとは、偶然が作用するポテンシャルのある状況に身を置く、ということなのである。
偶然に身を開く、とは、受け身の体勢を取ることではない。常に自らの心身を、ポテンシャルの高い状態に保つということである。
身の回りの人や物との関係性を、常に磁力を帯びた状態にしておくこと。偶然とは、磁石のようなもので、磁力を帯びた場において、初めて作用するのである。

例えば私が、起業セミナーで自分の経験談を話すと、大抵「運がいい」との感想を受ける。
そう、運がいいんですよ、皆さんも運を良くしてください。運が悪いと零細企業の経営はままなりませんから、と応じる。
運を“良くする”とは、偶然=商機を捉えるためにポテンシャルを高くしておく、ということである。
ポテンシャルを高くして、偶然に開かれてあれば、「豪雨は降」ってドラマが生まれる。
仕事では意外な発注から想定外の業務に繋がっていく。
ツイッターをやれば、出会いが出会いを呼んで、刺激的な遊び友達が増えていく。…

2.因果の系列から縁起の場へ

ここで、話を整理しつつ、拡張しておこう。
そもそも現実の世界は、複数の因果系列が併走、交差する縁起の場である。
偶然に開かれるとは、因果の系列から縁起の場へと超脱することを意味する。
超脱は、因果系列において、その因果が閉じる=固定することのないように、心身ー関係性を多義的な状態に保っておくことで成される。

心身ー関係性を多義的な状態に保つことで、「因果の系列」から「縁起の場」に超脱すること。
それは、じっさい、どのようにして成されるのだろうか。
因果の系列は、単線的な「論理」、或いは「物語」によってたどることができるが、縁起の場は、「形」によって、一挙に捉えられる必要がある。
ここでいう「形」とは、どのようなことを指すのか。具体的な事象を取り上げつつ、すこし迂回してみることにしよう。

3.形を捉える

例えば、歌舞伎は「形」である、と小林秀雄は言った。これはどういうことか。
歌舞伎では、人間が遭遇する様々な事態、退っ引きならない関係性、複雑な情動を演じるに際して、役者は心理ー表情ー台詞によって物語にリアリティを与えるということはしない。物語の流れのなかで、各々の要素ー役者の身体や型が付いた所作や背景ーに、画のような「形」が与えられ、役者はその「形」が、如何にすればびしっと決まるのか、自分の姿、動きを、自分の身から離した処において見つつ、演技に入ることになる。

ここで、野崎歓が井伏鱒二について論じたエッセイを援用する。まずは、野崎が井伏の「私」について書いた一節を引こう。

「私」は「私」を見る。つまり「私」は「私」の外に立ち、客観的な視線を投げかけることのできる眼をもつのである。そこには井伏の周囲に多く存在した私小説志願者たちの作品の主調をなす内的煩悶の吐露からきっぱりと距離を置いた文章のスタイルがあり、異なる「私」の姿勢がある。

私から離れたところに視座を置けば、自ずと、私と私を含む各要素が形成する「形」へと意識が向かうことになる。
結果、井伏のテキストにおいては、多様な諸要素が、どれが特権的というのでもなく、その布置として「形」を成すことになる。
井伏が特に好んだというトルストイやチェーホフでも、事情は同じであろう。
つまり「形」というのは、例えば歌舞伎という芸能の殊更の特質なのではなく、どんな舞台、テキストにおいても、作品が「私」から離れて自律を得れば、そこに「諸要素の布置」として結晶するのである。

4.「私」を離れること=「形」が結晶すること

私が私を離れること、世阿弥はこの視点の取り方を「離見の見」と言った。
私が私を離れることで、諸要素が、自ずとある「形」に収束していく、それがあたかも自然の力によって起こったかのように感じられること、つまりある「必然」なり「運命」なりの出来が感じられることが、芸能、文芸の理想的な境地であると言えるだろう。
作者=私の作意が感じられる、その度合いに応じて、その「形」は、内的緊張を失い、そこに「外的な主体という弛緩」が影を落とすことになる。

私が私を離れる、その「離見の見」が透徹したものであるほど、「形」の一要素としての「私」は、主体性、即ち自由を失っていく。「私」からいかなる自由も失われた状態、「形」の必然に完全にとらえられた状態が実現されれば、それがもっとも純度の高い「形」が出来する境地である。
私は、もはや、いかなる自由も持たず、「私」というひとつのエージェント(代理人)と化す。“運命”の代理人、“必然”の代理人、つまり「形」のエージェントとして、「私」に与えられた役割をこなすことになる。

5.「私」の救済

「離見の見」を徹することは、「管理された愚行」を生きるということだ。
どうしようもない「私」を「形」の必然として肯定するということである。
「離見の見」が透徹されるほど、「私」は、必然的に不自由で愚かしく「運命的」なものとなる。

実践が、「形」の次元で為されるとき、その瞬間、人は既に救われている。「私」にまつわる「悩み」は、解消されないまま、だが、「形」において肯定されるのである。
ここで、救済とは、「私の愚かしさ」から解放されることではなく、「私の愚かしさ」が愚かしさのまま必然的な、或いは運命的な役割として肯定されるということを意味する。

おそらく、甲野善紀が悟ったという「運命は完全に決まっていて、同時に完全に自由である」というのはこうした認識のことではないだろうか。

6.面的な集中

「形」は諸要素の布置であるゆえに、その要素の部分だけを強調すれば、例えば、一定の人間関係だけを前景化すると、その「形」は崩れてしまう。

映画の一場面を考えてみる。二人の登場人物が映っている場合でも、その二人は、海か山か町か部屋か、何らかの場所にいる。よくできた映画ほど、場所の描写が必然性にあって鮮やかだ。
さらに、もちろん、二人は、物語、つまり因果系列においてある。因果とは、過去の諸々の出来事が、現在のその一点に収束している事態を言う。つまり、映画のワンカットに二人の人間が映し出されるとき、その「形」は、二人の人間から成っているのではなく、多数の要素の布置から成る。

淀川長治が『失楽園』を観て、「あの二人は、ホテルなんかで心中しちゃって、後の人の迷惑のことなんて何も考えてないのね」と語っていたが、これは勿論彼一流の「批評」で、『失楽園』が駄作なのは、そこに二人の人間関係しか映っていない、即ち「形」が捉えられていないということが言われている。

「二人の恋物語」は、二人の人間によって演じられるのではないのだ。
二人の距離を縮めたり遠ざけたりするのは、二人の思いよりもむしろ、偶然の作用、例えば二人が住んでいる町の移り変わりや、その日の天気、たまたま遭遇する豪雨、そうした多変数の作動する「形」の作用なのである。

実践は、なぜ、単線的な理路において展開されないのか。すこし飛躍するようだが、これはフィクションにはなぜ「描写」が必要なのか、という問題にも置き換えられる。
フィクションに「描写」が必要なのは、多変数の「形」を“丸ごと”扱うためには、むしゃかった糸を解すような塩梅で、一点突破ではなく「面的な集中」が必要とされるからである。

現実においても、そもそも思考するとは、なんらかのモデルーフィクションを定立するということであり、ある意味人間の実践はつねにフィクションを免れることはない。
フィクションには描写が必要だということは、AがBをCにする、その場合、そのことを成すためのXを探るという思考が要請されねばならない、ということである。どういうことか。つまり、A、B、Cという因果系列を完遂するには、その因果系列を離れ、Xという「偶然」に開かれねばならない、そのことで、縁起の場を「形」として掴まねばならないということである。

Xを探る思考、「私」を「形」において捉える「面的な集中」、例えば「私」が起業するために猫を飼うことはとても有効かもしれない、というようなことである(笑)。
まあ、これは半ばは冗談だが、半ばは本気で言っている。そういうXに気づけることが重要なのである。

桜井章一は、例えば飲食店に入ったとき、その店の内装、机や椅子の配置、数を、瞬間的に把握する訓練をするといい、と言っている。
図と地があるとき、人はつい図に気を取られてしまうが、本当はその図の背景となっている地の「相」を即座に把握する方が重要なのだ。「面的な集中」とはそういうことである。
例えば赤瀬川原平は、夢を思い出すときは「栄螺の身を取り出す要領」が必要だ、と書いている。力や勢いに任せると、栄螺の身は途中で千切れてしまう。栄螺の身の形状を“触覚的に”想像しながら、力の入れ具合を調整せねばならない。

面的な集中、むしゃかった糸を解きほぐすこと、栄螺の身をうまく取り出すこと、事態を好転させる的確なXな見つけること、形を浮き上がらせる一点、その効果的な描写を試すこと、偶然を制御すること、…

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