上妻世海『制作へ』Remix -1

1.制作的体験

制作的体験とは、どういう体験か。
例えば、文章を書くときのことを想像してみよう。こんなことが書きたいという漠然としたイメージをもって書き始めた場合でも、たいていは、事前に思っていたとおりに書き終わることはないのではないか。
それは、文章を書くことを通して、自分が変わってしまうからだ。
数行の文章を書く。すると、その文章を書く前には不明瞭だった何かが露わになったり、新しい論点が出てきたりする。数行~数十行の文章を書くことで、あなたは、もう、それを書く前のあなたとは違ったあなたになっているのだ。
書く、変わる、書く、変わる、…そうして、文章を書くという行為を通して自分が変わっていくこと-それが制作的体験だ。

上妻は、しばしば、「制作」を「生産」と対比させる。「生産」とは、事前に決められた設計図-鋳型通りに、物を作るということだ。「制作」は、予め何らかの「意図」はあるにしても、その「意図」通りに物が作られることはない。物を作っていく過程で、自分が変わってしまい、そこで「意図」は修正される。作る、という過程のなかで、物と自分が相互に作用して、どちらも変わっていく。そのように相互性をもって作られる「物」を、上妻は「作品」と呼ぶ。そして、そのように作ることを「制作」と呼ぶのである。

つまり、「生産」とは、「自分が物を作ること」であるのに対して、「制作」とは、「自分と作品との相互性に入っていく」ということである。

2.「私は私でなく、私でなくもない」

さて、「生産」、つまり「自分が物を作る」というとき、「自分は自分」であり、「物は物」である。A=A、B=Bである。
それでは、「制作」においてはどうだろう?
自分も作品も、相互に変わっていくのだから、もはや「自分は自分」ではないし、「物は物」ではない。「自分は変わっていく自分」であり、「物は変わっていく物」だ。A=非A、B=非B、ということになる。

A=非A、B=非B?…こう書くと端的に矛盾であるように感じるが、それは「時間」を捨象してしまっているからだ。
制作という時間的体験のなかで、AはB、Cに変わっていく。だから、A=非Aは、A≒B≒C≒…というのが正しい。
つまり、「生産」から「制作」へ、とは、A=Aから、A≒Bへと、私の態勢をモードチェンジすることである。
「私が私である」という、絶えず<同一性>へと向かう再帰的な運動から、「私は私でなく、私でなくもない」という、絶えず<差異>を拡張していくアナロジーの運動に「モードチェンジ」するということである。

3.改めて、「私は私でなく、私でなくもない」

ところで、このフレーズは、そもそもは人類学者レーン・ウィラースレフが、彼がフィールドワークをした狩猟民ユカギールの主体の在り方について表現した言葉なのだが、どうだろう?これって、すごいキラーフレーズだよね?(笑)
このフレーズに「お」と思ったあなた、すごくセンスいい。だいたい、この文章を読んでいる時点で、どこかしら上妻世海『制作へ』に興味を惹かれているってことで、その時点でもうセンスいいんだけどさ。
そんなあなたなら、「私は私でなく、私でなくもない」ってフレーズのパンチ力、感じてますよね?(笑)

さて、制作的体験とは、自分と作品との相互作用が開かれるという体験だったが、上妻制作論は、そのことを指摘するに留まるものではない。その醍醐味は、その開かれた「制作的時空」において、「自分」と「作品」が、どのような在り方をしているのか、その様態を、あくまでも内在的に、厳密さをもって描出していくところにある。
それは、哲学、人類学、アート(文学、音楽、…)をめぐる議論の超領域的な「足場」とするに十分な堅固さを備えているが、それだけではなく、例えば普通に人が生きるということの「足場」としても作動する。

この後の議論については、随分難解な議論が展開されているように感じられるかもしれないが、それは、言葉の細部に分け入っていくようなタイプの難解さではない。根源に遡っていくために、どうしても必要な難解さである。
批評にも文学にもアートにも興味ねえよ、という人でも、つきあう価値のある難解さであることを保証しよう。

そんなわけで、次回は、この議論全体の核になる諸概念、<ミメーシス><共通感覚><アニミズム>といった論点について、上妻の議論を追っていくことにする。

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