管理された愚行

人類学者カルロス・カスタネダの著作に登場する呪術師ドン・ファンは、(真理を見る)「眼」を持つ人間は「私」を失くす、と説く。「私という偏り」に曇らない「眼」を持つことで、人は真理を直観することができるというわけだ。
例えば眠るときのことを想像してみればよい。人は横になり、行動を停止して、一時的に「私」を手放す。時に奇妙に意味深く感じられる夢を見ることもあるだろう。その夢は、“誰が”観ているのだろうか。そこには、覚醒時の「私」とは性質を異にする夢を見る主体があらわれる。
「眼」を持つ者=「智者」は、覚醒した状態のまま「夢を見る主体」として存在する術を覚えた者だ。「私」を失い、「私」に偏らない「瞑想的自己」として「二度生まれ」した者である。

だが、「瞑想的自己」とは、睡眠や瞑想といった、「行動の否定」をその条件とする。
「智者」は真理を「観る」、だが「行動」することはできない。「行動」は「私」という「偏った主体」にしか為し得ないのである。
ドン・ファンは、「智者」にとって、行動は、その一切が「管理された愚行」となる、と説く。

「行為(すること)」は重要ではない。重要なのは「無為(しないこと)」だ、と彼はいう。だが彼は、行動してはならないといっているのではない。内なる明晰な無為の心境から、行動すべきだと言っているのだ。すると行動は無為のもつ水晶のような透明さで顕れる。これが「管理された愚行」である。
これは凡人の混乱した心に駆りたてられた行動、すなわち通常の愚行とはまったく違うものだ。ドン・ファンは言う。まずわれわれは、自分の行動が無意味であることを知っておかねばならない。そして、そののちはこの理解には気をとめず、あたかもそれを知らないかのように生きていかねばならない。

カルロス・カスタネダ

「自分の行動が無意味であること」を知った上で、「この理解には気をとめず、あたかもそれを知らないかのように」生きていくこと。
「役者」になれ、ということである。
「役者」になれ、
模倣せよ、
多重化せよ、
不純を遊べ、
リアリティ=リズムを捉えろ、
共振せよ、
存在を踊れ、
誤謬を仮の足場として登っていく、
愚行によってある境域を突き抜ける、
「私」の愚かしさを活用してこの世界を祝祭的に更新するのだ。……

祝祭とは本来、カミという叡智の働きによって管理された愚行であった。
近代とは、カミが機能不全に陥った時代である。我々は自ら各々に「智者」として、改めて自らの愚行を管理せねばならなくなったのである。

「智者」になるのは、ひどく困難なことだろうか。いや、難しく考えることはないのではないか、と、私は思う。
ほんの束の間でも「私」を手放す術を覚えれば、その瞬間、「智者」としての「眼」が獲得できる。例えば、眠って、意味深い夢を見る者は、その間「智者」として存在している。ある種の夢は世界を更新する祝祭として作動する。

さらに例えば、気のおけない友人と、どうでもいい話をして、ときどき全身を震わせて爆笑する。そんなことでもいいのではないか。
月に一度くらいのペースで、こうした祝祭を導入すれば、人生は随分過ごしやすいものになる。
祝祭は、社会に強いられるあらゆる関係性、暴力性を反転させる。
家庭で、学校で、職場で、延々と強いられる惨めな役割、「私」、その下らなさ、どうしようもなさを笑い飛ばすことで陳腐な悲劇を大いなる喜劇に反転させるのである。
人の悪口を言おう、社会を呪ってやろう、私たちの愚行を称揚しよう、
どんな価値も相対的なものでしかない、
最終的に許されないことなど何もない、
そんな大いなる喜劇の世界に突き抜けるのだ、
全てを肯定して、全てを笑い飛ばしてやろう。

社会に強いられた「ペルソナ」を私自身であると信じてはいけない。「私は私である」ーこの再帰的な自同律が、一切の迷妄の始まりである。「智者」は、この迷妄から抜け出て、「私」を失い、新たな道化の仮面を付けるのである。

C・G・ユングは『個性化とマンダラ』(林通義訳 みすず書房)で、私と「ペルソナ」を同一化することの病理について書いている。
ペルソナとは、その人の社会的人格である。自我よりは狭い概念なのだが、ほとんど自我といってもよい。「自我を自分であるとすること」を、ユングは「ペルソナに憑かれた状態」と定義する。換言すれば、「私が私だ」と思っているのは、「私に憑かれている」とユングは定義している。

(ペルソナに同一化すると)不幸が起こる。そのときはつまりその人は自分が書いた伝記によってしか生きられないからである。彼は簡単なことをするにも、もはや自然にすることができない。
もはやこうなってしまっては、本来の自分に帰るには、ヘラクレスがネッソスの衣服を体から引き裂いて燃えさかる不死の炎のなかに身を投じたような、絶望的な決断が必要になる。

C・G・ユング

ペルソナとは、やや誇張した言い方をすれば、その人の本来の姿ではなくて、自分と他人が本人だと思っているものだと言えるかもしれない。いずれにせよ、他人から思われているとおりになりたいという誘惑は大きい。社会という相互承認システムに身も心も組み込まれることで、安心と安定を得ることができる、多くの人はそう信じ込んでいる。
そうして生きられるなら、それならそれでもよい。私の「伝記」を日々語り続け、語り直し、そのような強迫を反復して、その「不幸」に耐えられるのであれば、それもひとつの生き方である。

だが、限界、臨界は、いつも唐突に訪れる。その瞬間、人は「智者」として「二度生まれ」する契機を見出す、そんなことも起こりうる。

妻子を抱え、小遣いもなく、毎日馬車馬のように働くサラリーマンは、このまま「少し辛くて、でも平穏で幸福な日々が続く」と思っているはずだ。
だが、今日この後、“自分が唐突に蒸発する”ことだって起こりうるのである。
蒸発したその男は、“こんなことが起こりうる”ことに驚き、底の抜けたような解放感と、“それでも何も変わらない”ことに、つくづくこの世界というのは「なんでもあり」なんだという確信を得るだろう。

この世界では、「なんでも起こりえる」のだし、じっさいに「起こる」のである。
いや、そりゃ、無理だわ、とあなたが思い込んでいる、その域は、なにか偶発的な経緯のなかで案外容易に踏み越えられてしまうものだし、なにより、あなたがふと「いや、無理じゃないのかも」と、なぜか唐突にそう“思ってしまう”かもしれない。この世界は、「そういうところ」だ。





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