ディレッタント式読書法

1.ディレッタント式読書法

アカデミシャンのそれではなく、またいわゆるオタクのそれとも違う、ディレッタントの読書法というものがある。
特定のジャンルの知識を蓄えたり、専門知を産出するための読書ではなく、人生をより深く遊ぶのに必要な知恵をつけるための読書。
生活者としての、また遊戯者としての身体にとって栄養となる読書である。

さて、どんな読書がディレッタントの「栄養」になるのだろうか。
ジャンルや専門性にとらわれず、アナロジーを作動させて「これとあれとは似ている」「あれとそれとは通じている」「それとこれとは響き合う」とどんどん繋いでいってしまう読書法を身につけなければならない。
そうして、個別のスタティックな知識ではなく、また専門知の産出のための体系従属的な知識でもなく、領域横断的にアナロジカルに結び合った知識を蓄えていくのである。

私はディレッタントとして、ずっとそのような本の読み方をしてきた。私の読書履歴をサンプルとして見て貰えば、「アナロジカルに読む」という勘所を掴んでいただけるのではないか。
私は本を読むと、その本のなかで自分の身体知に響いたポイントをツイートとして記録している。
任意の期間、私のツイートを拾ってまとめてみる。その内容というより、別分野の本がどんなふうに繋がっていくのか、その接続の感覚を見ていただきたい

2.2017年7月の事例

以下、2017年7月のツイートを追ってみる。この期間は折口信夫全集を読みつつ、並行して他の本も読んでいた。通例、私は、一日1〜3冊くらいの本を読む。月にすると平均的に50〜60冊。アナロジカルな繋がりや飛躍を見るために、一ヶ月間の読書履歴を追跡するにあたり、50〜60冊は長すぎる。
この月は、個人全集を省けば、通例の月よりかなり冊数が少なく、履歴が追いやすい。冊数にすると、17冊程度である。

ところで、アナロジーを作動させるためには、一冊の本の主題を越えたより大括りの主題を念頭においておく必要がある。ただ主題といっても、あまり厳密な定義を与えると、かえってアナロジーの作動を抑圧してしまう。明確な定義、規矩が与えられない、言わば多様なレベルの類推を緩やかに束ねるためのフレームのようなものと考えた方が適切である。さらにそのフレームも、ある程度自在に「背景化」したり「前景化」したりしながら、柔軟にこれを用いる必要がある。
実際のケースを見てみよう。

7月、私がそうした大括りの主題として、なんとなく念頭に置いていたのは、「描くということ」「アナロジー」「生物の時間、小説の時間」。そしてこうした主題はいずれも言語表現の二項対立構造の乗り越え(排中律の乗り越え、と言ってもいいが)という命題をめぐって、連関して、相互に賦活しあっている。

1.川田順造『レヴィ=ストロース論集成』(青土社)。
ここでは、改めてブリコラージュについて、とりわけブリコラージュの「素材」が「概念」ではなく「記号」であることの重要性について考えていた。

レヴィ=ストロースが神話的思考はブリコラージュであると言ったのは、ありあわせの材料でうまくやる、しかもそれは概念ではなく、シーニュ、つまり記号でやるということです。記号というのは、見た目が似ている、外見が似ているということからの連想と言ってもいいです。
概念は、体系があってそのなかに位置付けられたものです。ですから、ブリコラージュというのは、わかりやすく言えば、システムの中の純正部品ではなく、ありあわせの素材を、見かけの類似をもとにして、ある全体をこしらえるということです。

「概念」はその背景に「体系」、即ち「公理系」をもつ。一方、「記号」は類似性によって、アナロジックに結び合い、ある「構造」を制作する「構造素」である。
つまり、「構造」は「体系=公理系」ではない、「準同型的な変換群」である。
神話は、その素材として、常にたまたまそこにある、ありあわせの「記号」を「概念化する(公理系に還元する)」ことなく、記号を記号のまま、構造的操作(準同型的な演算)を通して制作される。
こう考えてくると、神話的思考における構造的操作=準同型的な演算とは、つまり記号(項)とその連接(関係)がどのような関係にあるのかという問題であり、つまり項と関係の相互包摂の問題である。
パースの「記号論」、熊楠の「事学」も、直接援用して考えることができる問題である。今後の宿題とする。

2.黒川信重『絶対数学の世界 リーマン予想・ラングランズ予想・佐藤予想』(青土社)
ここでも「準同型的な演算」について考えている。
この本では、「絶対数学」というワードが提起される。
絶対数学の基礎的な考え方は、「環からモノイドへ」という標語に集約される。
そもそも、20世紀の数学は、「環の世紀だった」と黒川は言う。

環とは、整数全体や複素数全体のように積と和という2種類の演算が入っている集合(代数系)のことであり、その元(要素)を「数」と考えるのである。

この数全体が環をなす、という、公理論的集合論にも通底する基礎を、絶対数学では、積という演算のみしかないと考えてみる。

環の中で最も基本的なものは整数全体の環Zであったが、すべての環はZー代数と考えることができる。これに対して、モノイドの中で最も基本的なものと考えられるのが、「一元体F1」である。するとすべてのモノイドはF1ー代数となる。このように一元体F1上の数学を、より明確に絶対数学と呼ぼう。つまりさきほどの「モノイド数学」のことであり、「F1数学」と呼んでもよい。これに対して、これまでの環の数学はZ上の数学であり、相対的な数学ーまだF1という底まで届いていないーと考えられる。
絶対数学の基本計算は、1×1=1という単純なものである。
このように21世紀の数学は極めて明解なものになる、というのが私の予測である。

絶対数学の方向性は、これまでの集合論がその基盤(公理)とみなしてきた「環の数学」が露呈してきた解消不能な矛盾点を、一元体上で解決するものとして捉えることもできる。
絶対空間の数学的世界の表現は、ζ関数を理解せねば見えてこないが、黒川は、敢えてアナロジックに喩えて、こう述べている。

絶対空間の“点”は、生きているように輝いて見える。これがライプニッツが「モナド」と呼んでいたものなのではないかと考える。つまり、モナドとはモノイド数学の点だと思えるのではないか。

絶対数学の応用範囲は広い、というより、これは環の数学、公理系の数学を、ある意味解体するものであり、一元体上で再構成するものである。
その「一元体」の数式のロジックを詳細に追っていくと、そこで為されていることは、項と関係の関係式の追求であり、西田哲学とも照応するものであると知れる。

3.西垣通『情報学的転回 IT社会のゆくえ』(春秋社)
レヴィ=ストロースの「構造」は、「絶対数学」の発想と、その基本的なところで照応する。
西垣通の「基礎情報学」の生命論的な視座において見ると、さら拡張性を高めるだろう。
論者の云う「情報」とは、生命体が自らの環世界に於いて、対象との間に一定の関係性=意味をつくりあげていく、その関係概念である。
ここでの「情報」は、つまり、生命が生命であることの定義、オートポイエティック・システムとして自己言及的に環境を制作していく、その働きに基礎を置いている。
つまり、「情報」とは、汎生命論的な概念である。生物は凡て、自らの環世界に於いて、謂わば「手探りで盲目的に生きている」。
この「生命情報」の次元が、すべての「情報」の基礎になる。そして、「生命情報」を基礎に、それとは別次元に「社会情報」が発生する。

AさんとBさんがいます。AさんはAさんの心的オートポイエティック・システム、BさんはBさんの心的オートポイエティック・システムのなかでものを考えている。それとまったく別の次元において、ある社会的な、ある組織的な、コミュニケーション・システムが成立している。情報学ではそうモデル化するわけです。その社会システムの中においては、コミュニケーションが連続的に、自己循環的に発生していくのです。

社会的次元は、個人の集合ではなく、ひとつの自律性をもった自己循環的なシステムである(ルーマン)。
コミュニケーションとは、異なるAとBの間で外在的な「小包」がやりとりされるというようなことではなく、AとBが共に社会という自己循環的なシステムに同期することであると考えられる。
そして、生命情報を基に社会情報を作って行く、という機制は、人間に特権的な力能ではない。
それは、汎生命的な力能である。つまり社会には、人間だけではなく、動物や植物も参加しうるということである。
情報学的転回とは、

人間は生物なのだというところから出発して、われわれが生きている生命環境を尊重しようというテーゼに基づいて、もう一遍根底から物事を考えなおしてみよう(…)
言語学的転回は、ローカルな、あるいはマイナーな文化も大事だということを言ったわけです。しかし、そこでは人間の問題しか視野に入っていない。人間と、それ以外の動物や植物のあいだには、明らかに線が引かれています。

この生命情報/社会情報の位相的な違いは、例えば、自然/文化、野生/人為、ともパラフレーズできるだろう。
自然、野生とは、つまり生命情報なのである。社会情報とは、文化、人為である。つまり文化的、人為的な次元は、必ず自然、野生を、多様な形で包摂する。
西垣通の基礎情報学が依拠するオートポイエーシス。そんなわけで、

4.ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・ヴァレラ『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(管啓次郎訳 ちくま学芸文庫)を何十年ぶりかで再読しておく。
オートポイエーシス単体間で「構造的カップリング」が起こり「セカンド・オーダー」のオートポイエーシス単体が創発する。
単細胞から多細胞生物への創発だ。
さらに、多細胞生物間で「構造的カップリング」が起こり「サード・オーダー」である言語域ー社会的次元が創発する。
構造的カップリングは、ふたつ以上のオートポイエーシス単体同士の間で起るが、生物ー環境もまた、典型的な構造的カップリングの二極となる。

ある環境における生物の個体発生的構造変化は、つねに、環境の構造的ドリフトと合同する構造的ドリフトとして起こる。

構造的カップリングによる創発が、セカンド・オーダー(多細胞生物)、サード・オーダー(言語ー社会)、さらに西垣の云う「機械情報」は、フォース・オーダーということになるだろうか。
各々次元の異なる自律的情報系を創発していく。
構造的カップリングは全体ー全体のカップリングになるので、新しく創発された次元が下層をメタレベルで包摂してしまうということにはならず、各次元は、常に相互に包み包まれる相互包摂の関係にある。
野生(自然)/人為(文化)の二極が相互包摂しているという、その在り方も、単細胞/多細胞/社会/メディアと多極の相互嵌入を考えると、さらに具体的で解像度の高い様相を描くことができる。

ところで、議論を情報論的に展開すると、ある種の哲学や人類学が提起しつつある新しい世界像と、ネットやAI等、現在-未来のテクノロジーが開く世界像とがどう関わっているのか、その視座を得ることができる。

5.井上智洋『「人工超知能」ー生命と機械の間にあるものー』(秀和システム)。

物自体は〈情報〉であり、物理世界全体は〈情報システム〉ということになる。ただし、〈情報〉はクオリアと相補的である。〈情報〉は、私達が知覚する物質からクオリアを抜き去った後に残るものなので、この世界にあってクオリアでないものは〈情報〉であり、〈情報〉でないものはクオリアである。

著者は、この情報/クオリア二元論を、バークリーによるロック批判を辿り直すところから導いたのだという。
バークリーを、唯心論にも、カント的な超越論にも落とし込まず、物理的現象を関係論的な様態である情報として解いていく。
AIの知がヒト(生命体)の知と、何処が決定的に異なり、どのように、その異質性を“越えて”、生命と機械とが交錯することが可能になるのか、そうした課題を塾考するには、この情報/クオリア二元論は、とても有効なフレームであるように思う。
技術的には、現状、
1.確率統計に基づいた機械学習によって、事例的なビッグデータから帰納的な推論が可能となっていること、
2.強化学習によってある種の自律性が実現されていること、
このことの持ち得る社会的インパクトの大きさには、非常に興味がそそられる。
いまのところ、AIにメタ思考は不可能ということだが、帰納推論の演算の次数を高めれば、人間の創発的なメタ思考に限りなく近似する知的生産マシンも可能なのではないか。
それから、技術的なトピックとしては、我々の物理空間の情報化(一般的な意味での)と、我々の身体のヴァーチャル化が、並行的に進んで行ったとき、様々な形でその交差が起こっていく、その時生まれてくるであろう、新しい習慣や感情について考えるのも楽しい。

さて、レヴィ=ストロースの構造変換=準同型的な演算ということを、基礎情報学では生命論的視座において捉えなおしていく。その視座のうえに、現在のシンギュラリティを迎えつつあるAIテクノロジーの様々な可能性を探っていくという方向性もあろう。さらに生命=時間の命題の探求。

6.池田善昭×福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(明石書店)
福岡伸一の説く動的平衡ということが、西田の絶対矛盾的自己同一、逆限定の概念との格闘のなかで、特にその時間論がより深められていく。
池田善昭は、時間と空間の逆限定を説明するためのモデルとして、樹木の年輪を取り上げ、そこに環境が樹木を包摂し、同時に樹木が環境を包摂する逆限定の働きがあると語る。福岡は、環境が樹木を包摂するというのはわかるが、樹木が環境を包摂するとはどういうことか、とそこで議論が尽くされる。
結局、その疑義は解決し、そこで福岡は、生命がエントロピー増大を乗り越える際、時間を「先回り」して自らを分解することで、謂わば時間を生み出している、
動的平衡に於いて非常に重要なその機制について、それは「先回り」ではなく、逆限定の円環から時間が湧き出しているのだ、という認識に至る。

生命自体が時間の中に流されているように見えるけれども、実は生命は常に時間を追い越していて、追い越すことによってはじめて時間が生み出されているんじゃないかな、というふうに感じるようになっています。
それは、まさに、ミンコフスキー空間における点の集合として時間があるんじゃなくて、常に、円相図みたいな、くるっと一回転する時間というか……。これは生命がなぜ絶えずリズムを刻んでいるかということにも関係していると思うんですね。
生命は確かにリズム(律動)なんだと思うんです。ある種の循環なのではないか、と思います。
では、なぜ生命がリズムを作っているかというと、それは絶えず追い越しては追い越される、追い越しては追い越される……という循環を作らないと、時間が生まれないからだと思うんですよね。
で、それを繰り返しているのが「動的平衡」という作用・仕組みですので、まさに動的平衡の観点から見ると、「物理的な時間」というものは本当は存在しないとも言えるとも思うんです。
むしろ、生命がその営みを通して、ある種の脈動として時間を生み出している。

ここで提起されている「生命自体が時間の中に流されているように見えるけれども、実は生命は常に時間を追い越していて、追い越すことによってはじめて時間が生み出されているんじゃないかな、というふうに感じるようになっています」という生命-時間論は、非常に示唆的でかつ拡張性が高い。
ここで福岡伸一は、動的平衡論を西田哲学に照らして展開するなかで、「物理的な時間は本当は存在していないんじゃないか、生命が時間を生み出しているのだ」という認識に至っている。

これは、逆に言えば、時間を生み出しているものは、それ自体「生命」として考えられる、ということではないか。
デューリングの「プロトタイプ」は、ひとつの「生命」と考えられる。時間を創発するからだ。「小説」も時間を創発する。

ここで、「小説」にはなぜ「描写」ということが必要なのかを考えると、生命と「描く」ということの関係について、より興味深い視点を導くことができる。
小説に内在するとき、そこに描写されている人物や物は、各々にそれ自体であって、何か別のものの代理ではない。
各々がそれ自体である人物や物が、偶発的な事件をめぐって再配置される-それが小説に於ける「物語」の位相である。
このことは「小説は独自の時間を内在している」と言い換えてもよい。
小説で、描写が重視されるのは、一度小説的な時間が流れ始めれば、その時空に於いては、意味に閉じない人物、動物、物が存在しはじめる、その存在を捉えるために描写が必要になるのだ。
逆に言えば、描写が十分に機能して、そこに一義的な意味に閉じない存在が描き出されれば、そこに小説の時間が流れ始める。つまり「小説はひとつの生命となる」。
ここで小説を離れてみる。
人物、動物、物、情景といった事象が、各々それ自体として存在する、この現実という時空そのものが、やはり生命的な現象なのではないか。
我々は、自分を、他者を、動物を、物を、情景を、我々の生命の働きに於いて、絶えず「描出」しているのではないか。
描写とは何か、という問題は、ひじょうに拡がりがある。
小説にはなぜ描写が必要なのか-そこに事物が事物自体として存在する小説的な時間を生みだすためである。
俳句も、描写によって、その背景に汎心論的な時間を生み出すための技芸だと考えられる。
さらに一般化すれば、そもそも「作品」が自律性をもつとはどういうことか-コンセプトがモノとして存在するということである。
所謂「制作」「創造」とは、コンセプトをモノとして「描写」するということではないか。そのことで、「作品」は自律し、つまり独自の時間をもつ「生命」となる。
作品がモノとして自律するとき、人間や動物といった自然物一般と、同じ資格での交流が実現する。換言すれば、これは、情報と物理的な事物が同一平面で交差するという事況である。

制作されたものとして制作する、という「制作者-製制作者」のプラグマティックな連鎖のなかに入る-この未来から過去へと流れる時間のなかでは、事物は事物自体として存在するがゆえに、そこでは単一の意味に縮退しない事物の事物性-多と照応する一としての事物の丸ごとの「描写」が要請される。

岩田慶治の言う「観相学」もまた、この「描写の学」の脈絡のなかで捉え返すことができる。
この脈絡には、バーバラ・スタフォード一派の、「視の復権(言語ではなく絵図の優位性)」という問題も含まれるだろう。
生命論ー時間論ー作品論(小説論)ー描写の学ー図と地の同時把持ー項と関係の関係論。

7.木岡伸夫『邂逅の論理 <縁>の結ぶ世界へ』(春秋社)。
ここでの最大の収穫はアナロジーについてより精度の高い思考が可能になったことだ。
構造的変換、準同型的な演算、これらはつまり記号=準同型を「部分」ではなくそれ自体自律した個(項)として、そこに近似性ー遠方性を見出していくアナロジー思考と同型のものである。
そもそも、準同型を繋いでいくアナロジーは、「認知主体がその認知機制に沿って似ているものを並べていく」だけのものだと考えると、議論に何の拡がりもなくなる。
アナロジーということを、認知主体によって統制されるものではなく、むしろ認知主体をそのアナロジーの媒介項のひとつとして、物(事)と物(事)が結び合う世界像(事々無碍の世界像)を描出しなければならない。
著者は、山内得立の「アナロギアの論理」を援用して論じている。
そもそも、アナロギアの論理とは、異なるものが、その異質性を維持したまま結合されるということだが、その結合の原理となるのが、等比性である。

一と多、神と人間の間に、本体と属性の関係は成り立たない。にもかかわらず、人はそれぞれ神に関係し、かつそれぞれの関係をつうじて、他の人々とも関係する。この関係の核心は、「比例」(等比、proportion)にある。
しかし、「等比はふたつの“事物”の“量的”関係であるが、等比性は二つの“関係”の質的関係である」。「等比性」が量的関係ではなく質的関係であるとは、それが異なるもの同士の「比喩」(metaphor)になるということである。

一個の事物は純粋に量的に捉えられるものではなく、それ自体が関係を含むものだとすれば、一個の事物は、そもそもA:B(:C:D...)といったproportionとして存在する。そのとき、事物と事物との関係は、関係と関係の関係、として捉えられることになる。
西洋の論理であるアナロギアに於いては、A:Bに、神:人、存在:存在者を措く。神と人、存在と存在者の間は隔絶している。アナロギアは、上位の秩序(コード)を想定することなく、各存在者の連絡をつけるという意味で、ボトムアップの機制だが、AとBが隔絶しているところに、その限界がある。

一なる「存在の根拠」(以下、<存在>と表記する)とそれに根拠づけられた多なる存在者の関係が、「存在のアナロギア」にほかならない。<存在>と存在者は隔絶しており、存在者が<存在>を直接把えることのできる道はない。
あるのは、それぞれの存在者(A、B、C、…)が<存在>(S)にかかわろうとする関係性のみである。その関係において、存在者と<存在>(S)の直接的な結合はありえず、各存在者はそれぞれの仕方で、S自体に代わるその象徴、「意味」を受けとるのみである。
Sそのものとの直接的関係がありえない以上、そこに成り立つのは、Aにとっての意味S1、Bにとっての意味S2…といった仕方で個別化される関係性に過ぎない。そのような個々の関係性同士の関係を考えるとき、A:S1=B:S2=C:S3...という「比例のアナロギア」が成立する。

ラカン的、否定神学的な構成である。
だが、このA:B(これはつまり、一:多ということだが)に、神:人、存在:存在者ではなく、仏:人、絶対無:存在者を措くと事態はまったく変わってくる、と論者は説く。そこに垂直ではなく水平の「我ー汝」の<縁>の位相が開かれる。
物(事)は、原子‐外延ではなく、proportionとして存在し、世界は多数のproportionが、比例関係において、アナロジックに結び合うさらに次数の高いproportionとして存在する。
其時、proportionの項であるA:Bに何と何を措くか。神(存在):人(存在者)を措くことで、その隔絶性に於いて、世界は固定された二元性に閉じる。
仏(絶対無):人(存在者)を措くことで、その中有性に於いて、世界は融通無碍な多元性に開く。
一方に認知主体があり、一方に認知される客体がある、この図式自体が、存在:存在者のproportionを前提とするものであり、つまり存在/存在者の隔絶性が、主体/客体の隔絶性とパラレルになっている。そして、このパラレルな隔絶性は生/死、私/他者と、無限に拡張されていく。
さて、proportionの項は、じつは、どのようにも置き換え可能である。置き換えれば、世界が異なってあらわれる。“実際に”、異なってあらわれるのである。
これは、制作的実践のなかで、多様な作品によって世界が多元化する、ということとパラレルに考えればよいことである。
存在:存在者のproportionに於いてあらわれる西洋ー近代的世界は、可能な世界のひとつのvariationでしかない。例えば、トーテム的な世界像とは、猫:存在者:鷹:存在者:熊:存在者…と多元化された世界であると捉えられる。

8.西郷信綱『梁塵秘抄』(講談社学術文庫)、
9.五味文彦『後白河院 王の歌』(山川出版社)、
10.植木朝子『梁塵秘抄の世界 中世を映す歌謡』(角川選書)、と梁塵秘抄関係三冊。

保元、平治の乱を経て「中世の始まり」の立役者として権勢を振るった大天狗=トリックスター、後白河院。後白河院が振興した今様について、この時期興味を向けている。今様のどんな側面に興味が向いたのかというと、主に、「遊び」「自然観」のテーマについてである。

遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ
西郷信綱〜
日常の仕事をやめて何かをするのがアソビの本義である。タハブレも、常軌を外れるという意をふくむ。
ところが遊女には、常人とは違ってなりわいそのものが運命としてアソビであった。遊女のそういうなりわいとしてのアソビと童子らの無心なアソビとの二相が、かくてここで奇しくも等価関係に置かれるのである。

梁塵秘抄には、しょっちゅう動物、自然物が登場する。

山が田を作れば、面白いものやれ
猿は簓(ささら)する、狸は鼓打つとの
打てば好う鳴る、狸の太鼓おもしろ
昔より簓は、猿が好うする

鳥獣戯画の類だが、ただ、風刺的な含みだけでなく、動物への交感がベースにあるのが感じられる。
さらに、こんな句。

淀河の底の深きに 鮎の子の
鵜という鳥に 背中食はれて きりきりめく いとをしや

情緒は、鮎の子へ付いている。鮎の子への視点の転換が起っている。
論者は、鵜をたんに「鵜」ではなく「鵜の鳥」とするところに「鵜にたいする新たな驚きが示されている」と論じる。
「きりきりめく」

「きりきりめく」とは、鵜のくちばしにくわえられた鮎がしきりと身もだえし、篝火のもと水中にきらめくのをいったものである。(…)背中を食われた鮎の子のあがき苦しむさまを喚起してくる。さらに「いとをしや」がこの語を受け、きりきと心の痛むこととも、それはかさなる。

そういえば、この論でも引かれている、-

をかしく舞ふものは
巫(かうなぎ)・小楢葉・車の筒とかや
平等院なる水車
囃せば舞ひ出づる蟷螂(いぼうじり)・蝸牛(かたつぶり)

は、澁澤龍彦もエッセイでとりあげ、「おもしろい」と喜んでいた句である。
まず舞うものを尽くしていく、童心に訴える単純な愉しさがあって、さらにそこにエロチックな含意が重ねられ、いかにも澁澤好みである。
梁塵秘抄など読むと、鳥獣草木と目線を同じくし、赤裸々にエロチックな世界観が、じつにのびのびとして愉しい。
今様は、現在で言えば、歌謡曲・流行歌のような民衆の表現だ。その中世日本の民衆の表現に、人間を特権化することのない、動物へのフラットな眼差しがあるという点、そのことのうちに中世民衆の世界観の一端が掴めるのではないか。それは、人間関係を軸とする王朝文学とは異質なコスモロジーである。

植木朝子は今様を、
1.堕地獄への諦念、悪人への共感
2.恋の世界ー解釈の多様性・配列の妙
3.王朝的美意識への反逆ー躍動する動植物
4.都市の賑わいー雑踏する人々・芸能の熱狂
のテーマで拾い、和歌を核とする王朝文学と対照させ論じる。

「躍動する動植物」というテーマで、特に虫をめぐって、和歌では虫の音しか詠まれることがないが、今様では、その動きが表現される、という指摘。
今様で虫が取りあげられるとき、ほとんどの場合、「遊ぶ」「舞ふ」という言葉が共に使われるが、これは「虫の芸能化」を媒するものでは、と論じられる。

虫を見つめ、虫と遊んだ人々は、虫に「なる」ことがあった

虫の動きを精緻に観察し、共に「遊ぶ」、つまりその動きをわが身に写して虫に生成変化するということ。著者は、動物風流の動機を、人間が「野生の力」を手に入れるためのものだとする橋本裕之の論説を紹介している。

能はもともと態、即ち、「もどき=ものまね」であった。日本の芸能は、そもそも「もどき」に発している。
虫の芸能化とは、虫を「もどき」、そのことで場を笑いで満たして、虫の「野生の力」にアクセスるための仕儀のことである。
論者は、これら躍動する動植物の姿が、伝統的な美意識を裏切る、今様の切り開いた新たな世界、と論じているが、逆にこの世界の方が古層なのではないか。むしろ、王朝文学が、都市的な(=人間関係に切り詰められた)洗練を遂げるなかで、普遍的な自然物との交感の世界を失っていったのではないか。
今様、そして中世民衆のコスモロジーへの興味も、基本的に環境人文学的な脈絡における興味である。

11.赤坂憲雄『性食考』(岩波書店)も、その興味の流れのなかで読んだ一冊だ。
例えば、フロイトは、社会ー文化的な次元を全て性のメタファーで塗りつぶすが、あれは無意識=内なる野生へのアプローチとしては片手落ちで、そこに食のメタファーを重ね、カニバリズムの問題系を立ち上げることで、より立体的な「内なる野生の位相」が描き出せるのではないか。

カニバリズムの問題系については、ヴィヴェイロスのパースペクティヴィズムの視点と取り入れることで生態系における捕食ー被捕食関係、折口的な闘争(魂の喰らい合い)まで視野に含む、非常に刺激的な議論が展開され得る。

この本では、三陸の漁師の「自分もまた食われるものである」という生態系における覚悟のもとに魚を捕って食う、そのコスモロジーが彷彿とするエピソードが紹介されている。

東日本大震災が始まった年の夏から秋にかけて、「魚や蛸を食べる気にならない」という人がすくからずいた≫のだと言うー≪捕れた地魚をさばくと、内臓のなかから人の爪や歯が出てきた、蛸の頭のなかに髪の毛がからまっていた。
ところが、「だから、俺は喰うんだよ」と言い切ってみせた三陸の漁師がいた、と仲間から聞いた。強い言葉だな、と思った。板子一枚下は地獄といわれるような、生と死のきわどい境を生きる男だからこそ言わずにはいられなかった、覚悟の言葉だったのではないか。
海で死んだ漁師のからだは、魚や蛸によってむさぼり喰われるのかもしれない。山谷河海を舞台として暮らす人々は、大きな命の循環のなかに人もまた生かされてあることを自覚している。

生態系における食べる-交わる-殺すという問題系。

12.オギュスタン・ベルク『風土の日本 自然と文化の通態』(篠田勝英訳 ちくま学芸文庫)
訳者あとがきに、原題を直訳すれば『野生と人為ー自然を前にした日本人』とある。
自然/文化という二分法ではなく、野生-人為を、相互に入れ子状になっている様相と捉え、とりわけ日本の文化事象に、人為-ロゴスでは包括できない極として「野生-自然」を見出していく。
ベルクの語彙に沿えば、文化とは空間構成的な体系(言語)であり、自然とは空間以前の場所性ということになる。
空間以前の場所性は、時間以前の瞬間性とも換言できる。

言語(空間構成的な体系)は、その指向対象の場所的な次元に一度根を下ろさない限り、現実に行き着かず、したがって真の意味を持たない。けれども言語にとって場所的な次元は異質なものであり、同様に自然は文化に還元できないのだが、それでも自然は文化を灌漑し続ける。
表象の体系をそれ自体に重ねて閉ざす(閉じたシステムにする)ことは、空しい試みであり、そして幻惑的な試みであろう。しかし逆に必要なのは、そこに裂け目を作ることである。意味が出てくるのはその裂け目からなのだ。反対に、言語を解体するのは不条理な企てであろう。
言語によってこそ、意味は精神が到達できる形象、すなわち意味作用として整理されるからだ。合理的な唯一の方法、それは表象の空間構成的な秩序を絶えず養い育て、まさにそのことを通じてますます意識的に、その意味の裂け目を明確にすることである。
裂け目を塞いではならない。そこから現実が現れるからである。

裂け目から現れる現実-これがつまり野生である。
ここで言われていることは、つまり、文化-言語の洗練は、無数の裂け目をその内部に編み込んだ、文化と野生の綴れ織り(通態)として存在する、純粋な自然、人為は存在しない。

問題は、人間の諸々の活動が自然であるか、あるいは文化的であるかを判断することではないのだ(非現実的な疑問)。むしろどの活動がどの程度いっそう自然であるか、あるいは文化的であるかを評価することである。

例えば、脇水鉄五郎の「日本山岳風景の美点も、その長所も、山岳の偉大、奇抜、展望にあらずして、渓谷美にある」との評言を引き、「つまりまったくの陰画(ネガ)であって、山で重要なのは、高さではなく深さ、光ではなく影なのだ」として、これを「母型への包摂のメタファー」と論じられる。

自然物を「景化」する、つまりメタファーによる象徴化を通じて、野生ー人為の相互包摂を生成する一例である。別に挙げられている細密な歳時記等は、メトニミーによるインデックス化と言えるだろう。メタファーとメトニミーを縦横に張り巡らせ、謂わば夢のように自然を包摂する。

その「場所が空間化される」という経緯について、それは抽象化ー概念化ではなく、喩の働きによるものである故に、場所性≒身体性≒多義性を失うことなく重層化されていく、というような趣旨の議論も、非常におもしろかった。

それから、「意味」の現れについて-ここは、非常に含み豊かな件だったので、そのまま引用しておく。

意味は、通態性と結びついて現れる。通態性によって、指向対象の場所的次元と、指向性の空間構成的次元が結合する。
より単純に言えば、意味は風土の固有の次元と結びついて現れるのであり、その次元は私は風土性(mediance)と呼ぼう。
風土性つまり意味は風土の周縁に向かって次第に弱まっていき、一方ますます微細なものとなる表象に席を譲る。
また逆に単一の場所の専有においてもー専有は主体の本体において最高点に達するのだがー意味と風土性が消滅していき、純然たる体感として溶解する。
この対称的な消滅は、どちらも決して完全に現実化されることはない。
語ることができるのは、意味の密度と同様、風土性の変動についてのみであって、残りは潜在性である。

ベルクの議論は、文化/自然の二元図式を、何度も転換しつつ論じられているが、例えば「自然」を「ガイア」として、文化的表象と自然における記号を考察させつつ、自然-文化の入れ子構造をよりフラットに論じる段階に来ているようにも感じる。とはいえ、ベルクの議論は、とても示唆的である。

13.河合隼雄『<物語と日本人の心>コレクションⅠ 源氏物語と日本人 紫マンダラ』(河合俊雄編 岩波書店)
14.河合隼雄『<物語と日本人の心>コレクションⅡ 物語を生きる 今は昔、昔は今』(河合俊雄編 岩波書店)

来年一月は、南方熊楠、鈴木大拙、ユングを併走させて読もうと思っている。いずれも、曼陀羅的統合を萃点として、本覚思想的な汎心論(アニミズム)をその裾に広げている。
ユングについては、特に曼陀羅を「個性化」との関わりにおいて捉えているが、これは、個物論にもリンクする。

さて、河合隼雄の源氏論は、源氏を、光源氏が主人公の物語ではなく、登場する女性たち=紫式部の分身たちが、いかに個性化を遂げていくか(曼陀羅的な配置を獲得していくか)、という紫式部の物語として読んでいく。

王朝物語の主眼は、「ものの流れ」とも言うべきこととで、今日的に言えば、物とも心とも分類できぬ「もの」としか呼びようのない存在の流れが、人間の意志におかまいなくすべてを進めていく、このような認識が物語づくりの根本にある。

さて、「ものがたり」の「もの」は、たとえば「もののけ」の「もの」であり、人間の意志では制御できない、無意識ー身体ー物―魂ー元型である。これらの系列は、実体的な概念ではないが、人間の意志、自我に相関しない、自律した力動性をもって、「ものごと」を推し進めていく。
物語は、この、自我の範囲に収まらない自律的な力動性を、因果性を含んだイメージとして、理解可能なものに変成する。
人は、物語的な時間性に於いてのみ、経験を「納得」することができる。

ユングのいうconstellation(星座)としての物語。自我を中心に置くのではなく、自律した元型という多元的な中心とのバランスに於て自己が保たれるという考え方は、アニミズム的な世界観の中で人がどのように自らを実現するのかというテーマを考える際に非常に示唆的である。

近代になって、ゲニウス・ロキが死に絶えたので、人々はトポスではなく、人間のなかにゲニウスを探し出そうと努めるようになった。異界をどこかの場所に求めるのではなくなると、人間としての異性ということが大きい位置を占めてくる。(…)男も女も異性に魂の姿を見る。

15.パスカル・キニャール『謎 キニャール物語集』(小川美登里訳 水声社)。
キニャールの物語(コント)集。
解説で、キニャールの「物語」についての言葉が引用されている。

物語は子ども特有の言葉遣いがもつ自由や密度に近い。(…)子ども特有の言葉遣いは純粋な情緒に由来する。つまり「純粋に」性的であるということだ。「純粋」であるのはそれが完全に「倒錯的」であり、無方向的だからだ。

多型倒錯的な主体による言葉遣いは、無方向的な多義性に開かれたまま、常にヒステリックなまでの張力を保っている。
物語は、圧縮(隠喩)と置換(換喩)をもって、夢のような説得力を放つが、夢がそうであるように、それは常に重層的で、単一の意味の線に収束することはない。
物語を、視点人物を中心とするパースペクティブによって統御されるものとして捉えるのではなく、いわば自律的なイメージ(南方の「事」、パースの「記号」、ユングの「元型」、本覚思想における「山川草木」)による非ー求心的な構造として捉えること。

16.古井由吉『楽天の日々』(キノブックス)。
古井由吉は、もともと、視点人物を自明のものとしては立てない。
よって、そのテキストは「非-求心的な構造」をめぐるものとなる。
そこでは、意味より、意味以前の「律」が重要だと、彼は一貫してそう考えている。
「文章が通じる」とは、どういうことなのか。
それは、意味が送受信されることを超えて、“理解以前”の磁力に惹かれる体験であり、“意味以前”の律に誘われ感応する体験である、と、その経緯をめぐって考察された断片をいくつか引く。

現代の人間はどうしても分析へと傾く。分析はほどほどに控えたつもりでも多少の解体を招く。解体には、文体はない。文体のないところには、達意はない、とそう思わなくてはならない。
読者はかならずしも得心するわけではない。しかし意のしばし合わさるところには得心よりも先に、調べもいうべきものが流れて、やがて忘れても、長年の末にその聴覚がふっとよみがえる。
読むということはかならずしも、わかるわからぬのことではない。魂というような言葉を使いたくなるところだが、本に触発されて自分が一時でも自分からひろがり出る、そこに妙味はある。人の成長の機縁もある。本も人の中で眠るうちに育つ。

17.松岡正剛×ドミニク・チェン『謎床 思考が発酵する編集術』(晶文社)
特にインターネットがなぜつまらないかと議論される件。
身体化された知は、経過依存的で、そのゆらぎのなかに創発性を孕むが、ネットの確定記述的な「情報」には、その創発を誘う契機がない、と論じられる。
現在のネット環境に「適応」したユーザーの多くが、「コピーマシン化するインストール主義者」でしかなく、だからネットでのコミュニケーションは、本を媒介にしたコミュニケーション、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションに比較して、著しく豊かさに欠ける。

松岡正剛〜
編集力の醍醐味はアナロジカル・シンキングの進行を相互記譜していくところにある。
これはロジカル・シンキングでかたまりつつあるグローバル資本主義の技術の壁に有効なゆさぶりをかけられる可能性をもっている。
それなら(…)、インターネットの集合知から新たなバッハや近松やボルヘスが登場してもいいはずなのだ。

つまり、現在のネットには、アナロジーを誘発する契機を含むという設計思想が欠けているために、バッハや近松やボルヘスが登場する土壌が醸成しない、と言われている。

松岡正剛は、自身の「知の方法論」について、「そこそこ視野には入れても、自分で操作はしない。あえてフィジオノミック(相貌的)に観照するようにした」と語っている。これは、事物を「周辺視野で見る」ことでアナロジーを駆動する方法について語っている。

つまり、検事にも弁護士にもならないことによって「法」が見えたり、天体観測に従事できなかったことで「光」の意味が見えたりすることがあるわけですね。(…)このことをもう少し発展させると、あるものとあるものが出会って創発されるチャンスが近づくということが起ります。
また古いカテゴリーとニューカテゴリーが出会うとか、仏教の言説と物理学が出会うということがいろいろおこりうる。そうした見方がおこらないとすると、それはどちらかに加担して深入りしすぎているからです。

7月は、こんなところか。折口の影響で、歌舞伎の芸論についても、何冊か読んでいるのだが、割愛する。

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