「魂」の探求ー折口信夫の「悲恋」

「心と魂」で、「魂」について、ユング派の論客ギーゲリッヒの思考を追った。その一部を引用する。

自己-魂が、思惟のステータスにおいて否定的媒介を以ってのみ捉えられる被止揚性であること、そしてその思惟もまた自己-魂の先験性に相互規定的に定められた「ただ一つの思惟」を生きることを通してのみ可能となるということ。
ユングの説く「自己化」とは、こうした「到達しなければ始められない」探求を始めることであり、それを始めた瞬間に達成される「矛盾の実践的乗り越え」として体験される。

魂は、主観、客観、いずれにおいてでもなく、ある否定性を媒介として、思惟的なステータスにおいてのみ現れるということが言われている。
複雑なことが言われているわけではないが、抽象的で分かりづらいことは否めない。
何人か、実際に「魂の探求者」として生きた人々を取り上げて、より具体的に、「魂を生きる」ことの内実を浮き彫りにしていこう。
今回は、折口信夫について、「悲恋」をテーマにして論じた持田叙子の著作に依拠しつつ、ある「魂の現れ」の様相を見ていく(持田叙子『折口信夫 秘恋の道』(慶應義塾大学出版会))。

持田は、この論考で、詩人学者が生涯その詩魂を燃え立たせた「恋」、その「恋慕の水脈の跡を追う」。

このうえない至上のひと。どこかにいる。きっと出会える。ひとすじに歌と学問にはげむならば、その清らかな白い道の先に必ずや、彼のひとは立っている。

折口にとって「やまとだましいとは、恋」であった、と持田は説く-「恋のあわれこそ、民族の精神を比類なく鍛えあげ、ゆたかに育ててきた天寿の霊性」であった。
折口の「恋」とは、最初から、たましい(魂)の次元における交感を指していた。そして、だからこそ、それは必然的に「悲恋」となる。

そもそも「魂」とは、肉体のように、今ここに即自的に存在するものではない。「魂」は否定を媒介にして、想いにおいてのみ現れる。それは、私の欲望、性欲を動機としつつ、“同時に”その否定においてしか現れない。

持田は、若い折口が強く影響を受けた岩野泡鳴『神秘的半獣主義』を、折口の読みに添いつつ、その傍線が引かれた箇所を引く。

・先ずプラトーンの論を簡単に云って置くが、彼のイデヤ想起説に拠ると、僕等は本性からイデヤを知らないのではない、ただ忘れて居るのであるから、機に応じて之を想い起す、その最も切実なのがエロース、すなわち愛である。
・人の性根は一定不動のものではない、心の状態によって、男ともなるし、また女ともなる(中略)僕等は慕い、慕われながら、すなわち、かたみに男女と変性しながら、向上するのである。
・存在は盲目で、道徳的に云えば、無目的である。
・恋愛の極度は抱擁である。

岩野泡鳴の説くプラトニズムー「イデア」は、折口に「魂」として読み取られた。
イデアー魂は、欲望が“私の”性欲であることを自己否定することで、「想い」のうちにその実在を得る。
換言すれば、「想い」というステータスにおいてのみ「魂」は起動する。

そして、岩野の論で興味深いのは、ひとつには「魂」は、“私のもの”、自我ー所有であることを免れている純粋な運動性であるがゆえに、ジェンダーへの膠着を離れて、本質的に両性具有的となる、という点。

もうひとつは、「恋愛の極度は抱擁である」とされる点である。
つまり、「魂」は、“私の”性欲であることを否定した「想い」においてのみ現れるが、その「想い」は、再度、抱擁ー肉体においてその「極み」に至るとされる。
ただし、その「極み」は、ecstasyー脱魂の一刹那においてしか「実現」しない。その極みー刹那は、ただ肉体的なorgasmとは違って、いわば「魂」が受肉する一瞬なのである。
だが、刹那は刹那だ。だから、折口の「恋」は、持続的に「実現」することはない。必然的な「悲恋」となる。

愛恋が純粋にきわまるのは、悲しいことに一瞬。そもそも生命は「刹那の起滅」。ゆえに「生命活動の最たるもの」である恋が、一瞬であるのは運命。われわれはその「悲痛」の生の運命を生きる。
しかし愛恋が燃える一瞬は至福。こころに深く記憶をのこす。その一瞬、われわれは男女の区別も忘れ、人間か獣かも忘れ、相いだいて溶け合い、絶頂に達する。しかし一瞬。あとはまた闇をさまよう。
恋とは、すなわち生命とは、宿命的に悲痛なものなのだ。覚悟せよ、と泡鳴は説く。

「魂」は、肉の欲望、私の要求の否定として「想い」のうちに現れる。
この「想い」を、宗教的な文脈に置き直せば、「信」ということになるだろう。「想い」「信」、この「否定」のステータスにおいて、「魂」が現れる。

「魂」の探求者は、だから、幸福や安逸ではなく、必然的な悲痛を生きることになる。
肉の欲望、私の要求の「否定」とは、肉や私からの解脱ではなく、肉や私を、引き裂かれた状態に置くということである。
「魂」の探求、自己化のプロセスは、孤独と人恋しさに引き裂かれる体験、禁と破に引き裂かれる体験、否定と肯定に引き裂かれる体験なのであるー「悲痛」という謂いである。

持田は折口の佇まいを想像して、こんな言葉を書きつけているー

禁欲的ではある。だからといって清浄ではない。旅びと「われ」は、人ぎらいの世捨て人とはほど遠い。「われ」は恋人の不在に耐え、あるく。その一歩、一息ごとに濃密な肉感が立ちこめる。
恋する歓びも悦楽も、悲しみや恥辱も人より多く知り、もののあわれが心身にとびきりの深い傷を刻むことを詩人学者として誇る一方で、結局はとぼん、とひとり。
花には神秘的な花が多い。くらべて人間には少ない。まれに、ごくまれに神秘的な人間がいる。彼らは目に見えるものの動きのみを追う人々の群れの中で、窮屈そうに羞じらいつつ暮らしている。

折口の創作-学問的な方法論も、「魂」の探求者としての自らの資質に深く根差している。
持田が指摘するように、折口の創作には、「彼自身を濃く映すさすらいの姫君や、孤高の巫女、語部の姥がよく登場する」。
彼女達もまた、自身の身体を「私」と「魂」の「引き裂かれた」境域にして生きる者達だ。ー

彼女たちの独白が、物語をひきいる。それら女性たちのため息、つぶやき、屈折した長い語りには、作者自身の口唇のわななきの濃密な乗り移りが感じられる。

そして、この“引き裂かれた身体ー私”は、時に「死の夢を見る」。
岩野も折口も、若い頃何度か自殺未遂をしている。

泡鳴は仙台の東北学院で大学時代をおくった。その時、とくに死にたかった。
よく青葉城のうしろに広がる鬱蒼とした谷を散歩した。ある日、「高いところからこの谷底に身を投げて、死んでしまおうと決心をした」。絶壁まであるいた。そして絶壁から身を乗り出した瞬間ー『今や身は幾仞の空中に気魂を奪われようとしたとたんに、幽かに僕の心耳に響く声があった。眼を開いて谷底をうかがうと、それは細い流れの潺潺たる響きであった。』
谷川に降り、「清い水を一口飲んだ時」に死への夢から覚めた。湧き水のごとく「生命を重んずる心が起った」

理由のはっきりした自殺ではない。「魂」の探求者、自己化の過程を生きる者は、ある意味、絶え間なく「死への夢」を見ているとも言えるのである。

折口の学問は「主観的」と言われる。だがそこには「我意」は微塵もない。折口の「主観」は、もはや「私」が宰領する領域ではなく、言わば「魂の闘技場」として存在している。その学問の方法も、だから、その「魂」の糧となるような形でしか受け付けない。

本は食べてよく消化し、自分の血肉にする。モノとしての本に興味はない。ほんものの学者とはそうしたもんだ、本をからだに入れてしまうんだ。ありふれた資料を深く読みこんで『古事記伝』を書いた本居宣長のように、と思いさだめてきた。
先生が嫌われるのは、だらしなく恋すること。恋に楽しみのみ求めること。破滅を恐れ、小ずるくふるまうこと。恋をもて遊ぶそんな者に、先生はぴしりと鞭を当てる。
恋はいのちがけ。恋は魂の力の具現。生まれたからには魂合う人を、根かぎり探して抱きあうこそが人生。先生の考えはゆるがない。戦う世にもゆるがない。だから空襲が東京を焼き払う今も、われわれは先生にしたがい源氏物語を読みつづける。



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