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砂場遊びから学ぶ「人新世の『資本論』」

気候変動の脅威


いきなりだが、このまま気候変動が続くとやばい。
そのためには、子どもに砂遊びをさせることが大事なのではないかと本気で考えている。
砂漠化が進むから、砂に慣れた方がいいとか、そういう話ではない。
もっと真面目な話なのだ。

ここに斎藤幸平さんという大阪市立大学准教授(当時)が書かれた「人新世の『資本論』」という本がある。
このまま気候変動が続くとやばいから、資本主義とはおさらばしようぜという内容の本だ。

資本主義がどうやばいとか、これからどうすべきだとかが、いろいろ書かれているのだが、地球環境を守るために必要なのは、「私財」を減らして「公富」を増やすことのようだ。
簡単に言うと「ジャイアンを退場させようぜ」という話だ。

ジャイアンを退場させる目的

ドラえもんに出てくるジャイアンは、私利私欲の固まりだ。
「お前の物は俺様の物、俺様の物も俺様の物」という彼は言う。
ジャイアンのように私財を増やしたいという欲望が、資本主義の原動力になっていることは間違いない。
それ自体は悪いことではない。そのために、みんな頑張って働き、お金を手に入れようとする。
ところが、私財を増やそうとする欲望が、全体を不幸にすることがたびたび起こる。たとえばコロナ禍のマスク騒動がいい例だ。

金儲けしてやろうと思った人たちは、倉庫にマスクを溜め込み、高値で売ろうとする。その結果、日本にマスクがあるにもかかわらず、多くの人が使えないと言う事態に陥った。ぼくらが生活する上で大事なのは価格ではなくて、「使用価値」だ。使ってなんぼなのである。

マスクの例は明らかに悪そうだが、倉庫に眠る名画も同じだ。200年前に描いた画家は、きっと多くの人に鑑賞してもらいたいと思っていただろう。絵画を愛しているわけでもないおっさんが、値上がり目的で買って、倉庫の中にしまわれていることを望んではいなかったはずだ。

このように、私財を増やすことに執心しているジャイアンたちだらけの世界では、全体の使用価値はなかなか増えない。
倉庫に眠っている名画を保有するのが、国立美術館であれば、そこの国民は誰でも鑑賞することができる。全体の使用価値を増やすことができる。

俺様のものはみんなのもの

「剛田くん、これは君だけの物じゃないだろ。みんなのもの(公富)にしようじゃないか」とジャイアンに説教を垂れようとしているのが、出来杉くんならぬ、著者の斎藤幸平氏なのである。

みんなのものを増やすと、全体の使用価値が増える。そして、それ以上に重要なのは、無駄な競争が減らせるということだ。

公富とは、みんなのもの。空気であったり、自然の景観だったり、公園や図書館だったり、治安など形のないものも含まれるだろう。
これらのものには一切価格がついていない。みんなのものだから、誰かから買う必要がないのだ。
逆にいうと、私財には価格がついている。私財が減ると言うことは価格がついているものが減るということだ。つまり、お金がそんなに必要なくなる。
その結果、無駄な競争が減る。

たとえば、ブロックチェーンの仮想通貨で儲けようとする人がいなくなれば、使用される電力量は格段に減って、地球に優しい。
他にもある。人より稼ごう、他社より稼ごうという競争が苛烈になると、どういう広告を表示すればクリック率が増えるとか、どういうトーク技術を身につければ他の営業マンに勝てるかとか、使用価値を増やさないことにエネルギーを使うことになる。そういう競争がなくなれば、相当な労働時間が節約することができるし、消費する資源も減る。

まとめると以下のような話になる。
 ・個人の所有するものが減らして、みんなで所有するものを増やす。
→・無駄な競争が減る。使用価値も増える。
→・地球にも人にも優しい。

ざっというとそういうことが本書には書かれていた(おそらく)。
ここでふと思ったのが、所有という概念が変われば、問題が解決するのではないかということだ。

砂場の子供から学ぶ「所有」の概念

公園の砂場にいくと、小さい子どもたちから所有の概念について考えさせられる。

お砂場セット

3、4歳くらいの女の子が、砂場で遊んでいる。プラスチックでできた赤いバケツや黄色い熊手、青いスコップなどのお砂場セットを使っている。
そこに別の女の子がやってきて、一緒に山を作り始めた。
しばらくすると、すべり台で遊んでいた女の子がやってきて、3人で砂場セットを使って、大きな山にトンネルを作ったりしている。
今日初めて会った3人が仲良く遊んでいるのである。

たっぷり遊んで、さて終わりにしようとしたとき、砂場セットを片付けて持って帰ったのは、はじめに遊んでいた子どもではない。3番目にやってきた子どもだったのだ。

実はこの子は、お砂場セットを置いたまま、すべり台で遊んでいたのだ。
多くの場合、子ども同士は仲良く遊んでいる。
もめることもたまにはあるが、そんなときは「使っていないなら、貸してあげればいいじゃない」と親がさとしたりしている。
彼らを見ていると、所有というのは、独占的に自分が使うことではなく、大切に管理することのように感じる。

もしバーキンを貸し借りしたら

彼女たちの所有の概念が変わらずに、そのまま大人になったらどうなるだろうか。
私財を自慢して、マウントを取り合うことがなくなるんじゃないかと思うのだ。
だれか一人が新作のバーキンを買ったら、他の人たちは「あらいいわね。次は私に貸して」となるだろう。
その社会では貸し借りを嫌がる人は少ない。お砂場セットのように、「使っていないなら、貸してあげればいいじゃない」と周りが思うからだ。貸さないことのことが評価を下げてしまう。
バーキンの所有者は、手入れをしたりして、大切に管理することが求められる。
そうなると、価格の高いものを競って手に入れようとすることはなくなりそうだ。それよりもみんなの使用価値が高まるものを手に入れようとするだろう。

実際に、ただで貸してあげて全体の使用価値を高めようとする行動は大人の世界にも存在している。

美術館に飾られている絵がいい例だと思う。
どこぞのお金持ちが、自分の所有している絵を長い間ただで貸し出してくれていることがよくある。
鑑賞する側にしてみれば、所有者が美術館だろうと、個人のお金持ちだろうと、全く関係ない。
個人が所有したまま、みんながハッピーになっている。

砂場で仲良く遊べる子どもたちが、そのまま大人になってくれれば、斎藤氏の目指すようなコミュニズムが実現しなくても、地球は守られるのではないかと思うのだ。

(おしまい)

タイトル写真(Photo by Yosuke Sato https://www.chiikitoeizou.com/
以前、斉藤さんに僕の著書「お金のむこうに人がいる」を送りつけたことがあるのだが、読んでくださって感想までいただいた。
今月の田原カフェのゲストに斎藤さんが来てくださっていて、直接お話する機会があり、お礼を伝えることができました。

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読んでいただいてありがとうございます。
田内学が、毎週金曜日に一週間を振り返りつつ、noteを書いてます。新規投稿はツイッターでお知らせします。フォローはこちらから。


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