「ほんとうの恋」

「あなたは本当に人を好きになったことがないんだよ」

このことばとの距離感は難しい。難しすぎて、胸のあいだ、たぶん胃の入り口くらいに胃痛になる直前のざわつきを感じて、意図的に目を閉じて、開けて、笑う。意識的に考えないことにするための儀式。反射的に口だけで余計なことを言わないための儀式。

とても失礼だし、ほとんど呪いで、でも希望とか救いのようなものでもある。救いということばは綺麗すぎるけれど、最後に逃げ込む希望なら、やはり救いだろう。

私は人を好きだよ。

嫌うべき人を嫌うことができなくて、その人に比べればどんな人もずっと好きで、基準が崩れてしまったために、どんな人も好きとしか捉えられなかった。
それはとてもよくないことだったと思うようになったけれど、それでもそのあいだに好きだった私の感情や、その「好き」を基盤に築いた関係を、否定しないでおきたい。
そんないい加減な、捨ててしまうことに決めた「好き」の尺度のなかでも、「特別好き」だった人はいる。これからどんな「好き」の尺度を持てばいいのか正直わからないけど、「特別好き」なままでいたい人がいる。

性欲と結びつかないというだけで、私の感情を否定しないで。
私の「好き」を信じて私と関わった人のことを、「その人を好きなんかじゃなかったんだよね」なんて勝手に言わないで。

でも、安堵していた。

とても好きな人で、でも社会通念上好きになるべきではない人のことを、私に性愛を向けられたくない人を、「私はそういう意味で好きではないのだ」と思うことができる。大好きな友人、慕ってくれた後輩、通りすぎに関わる子どもさえ。大学の先生、既婚者の先輩。私の「好き」は性欲と直接つながらなくて、だから、「好き」が性愛を含むのか、他の人が「敬意」や「憧れ」、「慈愛」と呼ぶものなのか、私には区別がつかない。
友人に対する振る舞いが度を過ぎていないか、私の視線は誰かを怯えさせていないか。先生、先輩に対する振る舞いが他人から疑問を呈されたり、彼らの立場を悪くするものでないか。そういう不安を、「あなたは人を好きになったことがない」ということばは宥めてくれる。私の振る舞いは人からそう見えてる、大丈夫って。欺瞞や言い訳だとわかっていても。

そして、「ほんとうに人を好きになったことがない」だけなら。
私はいつか、誰かと恋をするのかもしれない。幸せな恋をできるのかもしれない。

今までの恋愛を、恋愛ではない好きな人との関わりを、何一つ否定したくないし否定するつもりもないけれど。
私はできないんだろう、そういうものでないのだろう、と、自分を欠陥品のように思ったり、なんでと答えのない問いを繰り返したり、そういうのを散々やって、ただ事実として、「できないはできない」「それだけのこと」と納得したことを。納得したつもりのことを。

いつか、「ああ私はほんとうに人を好きになったことがなかったんだ」と、幸せな気持ちで振り返ることができる日が来るんじゃないかと。ずっと思っていた。

書きながらざわりとして、はっきり、「いまは願っていない」とわかった。

いつか私が性愛としての「好き」を理解して、体験することになったとして。もしかしたら「ああそういうことかあ」と幸せを感じながら振り返ることがあるかもしれない。
その「幸せ」を否定しないし、これまで理解できなかったものを一つ理解できるようになることは喜ばしい。私は選択肢が多いことが好きだから。

でも、べつにわからなくてもいいと、強がりでもなくそのまま、その日が来ることを切望してないことに気づいた。

性愛としての「好き」を理解したとき、 私は、「ほんとうに人を好きになった」とは言わないだろう。言わない私でいたい。ただ「そういう好き」を初めて理解したと言えばいい。

私に向けられた「ほんとうに人を好きになったことはない」は、非難でもあったし、慰めでもあった。希望のつもりで言われたこともあった。

その感情だけを受け止めようと思う。

「人を好きになったことがない」ということばそのものは、やっぱり失礼で、好意を異性愛に限定する呪いで、私は受け入れない。使わないし、使わないでくれと思う。
でも、かなり長いあいだ、私に人との関係を失敗していないと欺瞞でも思わせ、現実に耐えるための夢を見せてくれたことばでもある。

そのことに感謝して、さよならしよう。
自分のことばで人と感情と向き合って、自分の「好き」を大切にしよう。

※※

『完璧じゃない、あたしたち』を読んでいて、ふと、「いまなら」と書き出したものです。

「あなたはほんとうに人を好きになったことがない」ということばにはいろいろ思うところがあって、はき出そうとしたことは何度もあったけれど、難しすぎてことばにならなかった。

書けると思って書いてみたものの、想像以上におさまりがよくて驚いています。ふだん私の書くものは、ぐらぐら揺れている思考を頭の中にだけ止めないように、整理するために外に出しているようなもので。とりあえず限界だから今の思考を外に出してみたとか、明日こう思える保証はないけど思っていたいと願っているとか、ほぼそういう状態です。
これは明日も思ってる。来年とか数年後は、保証はできないけど思っていたい。

z z zさん、本の素敵なご紹介ありがとうございます。
実はまだ半分も読めていません。がんがん揺さぶられるのでもうしばらく時間がかかりそうです。でも間違いなくすばらしい本。好き。

Amazonのレビューって引用していいのかな。(いつでも削除します、すみません。)

一人ぼっちだと思う時そっと開いて読んでみると、それぞれ違う顔で違うやり方で包んでくれて、いいんだってばそのままで、と語りかけてくれるものがたりたち。余計な励ましよりただ受け止めてくれる世界があることを、信じられそうな気がしてきた。

晴れの日の野原さんの「ひとつづつ違うのにどれも暖かくて優しい」というレビューの全文です。

素敵なレビュー。「いいんだってばそのままで」「余計な励ましよりただ受け止めてくれる世界があることを」、(半分までですが)本当にそう思います。

いまのところ私にとってはあまり暖かくも優しくもありませんが^^; けっこうがつがつやられて、やられるところもふくめて強力にそのままでいいというかしかたないというか、勝手にやるし勝手にしろという強烈な応援に見えます。ほめことばです。念のため。人間賛歌はこうあってほしい。ほったらかしの肯定の優しさ強さ。

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