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『鬼滅の刃』感想

吾峠呼世晴作『鬼滅の刃』。完結巻がすでに発売されましたので、感想を。

第1話のタイトルのとおり、やはり本作で印象的だったことは圧倒的な「残酷」さというか、もう努力とか優しさとかそういう問題ではないくらいの理不尽さでした。突如家族のほぼ全員が惨殺されて妹が鬼になっちゃうって何!? まだ炭治郎たち子供だよ!?
だから作品初期の頃は、もう出てくる隊士みんな大体若いということもあって、こんな大変なものをなぜ若い人たちが負わねばならないのだろう……と気の毒に思っていました。
でも今思うと、まあ主人公が若いから主に若い人ばかり登場するということもあるかもしれないですが、隊士で長生きできるような人は少ないのかもしれないですね。

そのうち柱たちが登場し、これはアニメが放送していた当時にも言っていたことなのですが、私は冨岡義勇と鱗滝が柱合会議で命がけで炭治郎と禰豆子をかばってくれたとき、炭治郎と同じように涙が溢れて止まらなくなったものでした。
親を亡くして、妹の行く末も定かじゃないままにほとんど天涯孤独みたいな身の上になってしまった炭治郎。そんな彼を守ろうとしてくれる人がいるんだなぁ、こんなことまでしてくれる人がいるんだなぁと思ったら、ありがたくて……。

一方で、炭治郎にとって、死した家族の存在の重みがなくなることは最後までなく、彼は亡き家族を愛し続けました。個人的にものすごく好きなシーンのひとつが、魘夢によって家族が炭治郎を恨んでいるかのような悪夢を見せられたときの炭治郎の反応です。激怒するんですよね。
家族の死に立ち会えなかったこと、守れなかったことを悔いているのは間違いないのに、それに引け目を感じている部分もあるだろうに、炭治郎は家族が自分を愛しているということを疑うことはありませんでした。
「言うはずが無いだろう 俺の家族がそんなことを!!」「俺の家族を 侮辱するな」は最高すぎる台詞。大好き。
死者は炭治郎にとって生者同様に重要な存在であり、また主要登場人物の多くにとっても同様だったと思います。

たとえば善逸が師匠の無念を、義勇が錆兎たちの死を背負っていたように。それに関する象徴的な場面はいくつかあると思うのですが、私にとってとくに心に残っているのはやっぱり煉獄杏寿郎と、義勇が錆兎の話を炭治郎に語った場面と、胡蝶姉妹からカナヲへを受け継がれていく意思です。

作品中で死んでしまった登場人物は何人もいますか、死んでいった人の想いを繋いでいかなければならないという責任感を主人公にもたらしたのが杏寿郎だと思います。それは彼の鍔を炭治郎が受け継ぐことにも象徴されています。彼は戦う役割を手渡して死んでいった人々の代表者といってもよいでしょう。
そして彼の想いを繋いでいかなければならないと炭治郎が意識しているからこそ、義勇が自分に水柱の資格はないと言ったときに、「義勇さんは錆兎から託されたものを 繋いでいかないんですか?」という言葉が出てきたのだと思います。私はこのとき義勇がこの言葉でなぜあれほど心動かされたのか最初ははっきりとわかりませんでした。でも、さらに終盤を読み進めるうち、人の想いを「繋ぐ」ことこそが本作の大きなテーマであり、鬼殺隊の正体なのだとわかるようになってきました。

姉の仇を討つことを誓って童磨と対決したしのぶは、敵を倒すことに命を懸けあとをカナヲに託すことになりました。カナヲを含めた姉妹三人に渡るこの戦いは鬼殺隊の長きにわたる戦いの縮図であったと思います。
また、大切な人を奪った鬼を許さないという意思以外にも、この姉妹の間を受け継がれてきたものがあります。それは、姉妹を想い愛する優しさです。しのぶは姉の想いを引き継いで笑顔を絶やしませんでした。
また身寄りのなくなったカナヲやアオイたちのような存在を守ろうとしたのも、しのぶが亡き姉の優しさを尊んだ結果なのではないかと思います。そしてしのぶの優しさは、その継子にあたるカナヲに確かに引き継がれたように感じています。
生まれた境遇のせいで何も感じることができなくなっていたカナヲ。胡蝶姉妹の優しさに触れ、やがて少しずつ人間らしさを取り戻していきますが、血の繋がりなどはないのに所作や笑い方などがいちいちしのぶたちに似ているんですよね。童磨にカナヲが「胡蝶カナエと 胡蝶しのぶの妹だ…」と名乗ったときは思わず泣きそうでした。どんな想いで彼女がそう口にしたか。家族のいなかったカナヲは、姉ふたりの想いを確かに受け取って、彼女たちの家族になったんだと思いました。
しかし、彼女がようやく得た家族は、鬼に殺されてしまいました。だからこそカナヲは、鬼を許しません。
その想いは、鬼殺隊員の多くに共通していたはずです。鬼を滅するという強い想い。

産屋敷耀哉は、鬼舞辻無惨と対峙したときに「人の想いこそが不滅」と語りました。この不滅という言葉は、炭治郎が義勇に語った「託されたものを繋ぐ」という言葉とリンクしていると思います。大切な人を殺された者は鬼を許さない。殺された人々の想いを誰かが繋ぐから、人の想いは不滅なのだという。

作品終盤でヒノカミ神楽の伝わっていたことの正体として縁壱の物語が語られました。彼の弟子たちが殺し尽くされてもなお残った、繋がれていったもの。
「継ぐ」「繋ぐ」ということをキーワードとして作品全体を見渡すと、そうしたものが本当にたくさん見つかります。

私は、耀哉の語った不滅のものとは恨みを晴らすといったこと以上に、理不尽に命を奪うものに抗う人間の意思、大切な人たちと生きていきたいという意思が不滅であるということなのだろうと思いました。大切な人が脅かされることなく生きていける世の中になるなら、そのためなら命も惜しまない。
理不尽な世の中で死がまとわりつくような人生でも、誰かの命を大切に思うことは止められないしなくならない。

無惨は自分を「大災のようなもの」だと例えて、鬼狩りを「異常者の集まり」だと言っていました。無惨は基本的には責任を放棄していて、自分が許されない理由を理解しない人だったと思います。
鬼殺隊は日銭を稼いで静かに暮らしている人たちが鬼に理不尽に殺されないために戦っているのですが、彼は鬼に殺されるのは災害のようなもので、ただ受け入れろという。理不尽を受け入れ、人が鬼に殺されるのは仕方ないことだとただ受容せよと。炭治郎はこの言説に恐ろしく憤っていましたね。

鬼殺隊が人の命を大切に思い、自分の命を懸けても守ろうと抗うのに対して、無惨は人の命をふみにじることをなんとも思わないくせに自分の命だけは惜しいという人でした。その対立構造が興味深いのと同時に、心のどこかで無惨のいうことを理解できてしまう読者としての自分もいたものです。
だって自分の命はそりゃあ惜しい。私はきっと炭治郎たちみたいに誰かのために自分の命を捨てても戦うなんてできないだろうと思う一方で、同時に無惨のように自分の命のためなら他者を殺すことも絶対にできないだろうと思います。でも死はやってくる。誰にでもやってくるものです。

それを無惨はけして受け入れようとしませんでしたが、炭治郎たちは命は繋いでいけるということをとても大切にしていて、また死者を非常に尊んでいました。最後まで、死んだ人たちの墓参りをしていたくらい。
死は絶対的な終わりではない、繋いでいけるものがあるという作品のなかの言葉に触れるたびに今の自分の人生もまた私個人のものだけじゃなく、もっと大きな不滅のもののなかの一部にあって、次の世の中の人が少しでも生きやすくなるようにして手渡していかないといけない責任を負っているのかもしれないと思わされました。

私はこの作品に込められた想いが本当に大好きでした。ありがとうございました。

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