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『ミッド・サマー』ならびにアリ・アスターについて思うこと

アリ・アスターは本心を見せない。
実際のところ何を考えてるいるのか、さっぱりわからない。
にもかかわらず、監督した作品は強烈にパーソナルなものになっている。

・ホラー映画を作る人は怖い
・美しい音楽を奏でる人は心も美しい
・誰も傷つけない笑いを取る芸人は、人の痛みがわかる優しい人

などなど、創作物と人品を安直に結びつける所作は、かなり野暮でそれ自体が危険だと思う。それでも我々(受け手)は、アート(創作物)とそれを作った人物の性質や、その人が歩んで来た人生を照らし合わすことをやめられない。それが作品の咀嚼に役立つと信じているから。


「ミッド・サマーはホラーというよりダークコメディ」

ということをアリ・アスターはインタビューで滔々と語る。
ほとんど感情を出さず、柔和な表情で。

また、

「ホラーじゃないって言うのはホラー映画だったら見ない人もいるから」

とも語る。早速煙に巻くアリ・アスター。
受け手のレスポンスを意識し、言葉のキャッチボールを楽しんでいるようですらある。

それに呼応するように、映画クラスタはネットの各所で

・ミッドサマーは恋愛(失恋)映画
(※本人談によると失恋経験を活かしたらしい)
・ミッド・サマーは家族の物語
・ミッド・サマーは癒し効果抜群

という具合に、みんな思い思いにストーリー考察、モチーフ解説(オフィシャルには完全解説ページまである)、ネタバレ批評、などなど様々なテキストがネットの海に広がっている。

それらのだいたい全部をアリ・アスター自身が取材で認めてるから、そういう映画っちゃそういう映画なんだろう。

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ニューメキシコ州で暮らしてた時期は辛かったらしいアリ・アスター


ここに至り、もはや何のジャンルの映画なのかわからなくなる。
しかしながら、延々と語られるこの作品は、それだけ“横断性”があり含意に優れたハイコンテクストな作品なのだと思う。


斯様に容易な解釈を許さない『ミッド・サマー』。

陽当たりの良い草原で色とりどりの花々。
スウェーデンのホルガ村(撮影はハンガリーで行われたとのこと)で催される「90年に一度の夏至祭」は、おおよそホラーのセオリーから解脱(げだつ)している。
白夜ゆえ圧倒的に明るい画面は、遠くまで見通せるゆえ暗闇がもたらす不安感とは縁遠いし、ひとたび没入してしまえば、一種のセラピー映像が如く気持ちいい。

祭りは村の掟に則り、粛々と続く。手を替え品を替え、ときおり極端なバイオレンスを添えながら。

そしてこの儀式の数々。圧倒的にルールがわからない。
村に訪れた主人公(ダニー)たち一行は面食らうばかりだが、客席にて安全が保証された観客からしてみれば、それがツッコミ不在で進む不条理コントのようにさえ見える。

不可解で不気味な心持ちが続き、ダニーはもともとのメンタル的な問題も相まって元いた集団との距離が離れていく。
恋人(クリスチャン)を初めとした男たちはと言えば、戸惑いながらも完全アウェイな環境で各々の目的(リズム)を取り戻そうと“抵抗”する。
しかし、“主導権”はもはや彼らにはない。
カルチャーショックに呑まれている内に、既に物事は全てホルガ村の集団(カルト)の道理・価値観で執り仕切られているのである(その後彼らがどんな結末を迎えたかは、ご覧の通り)。

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ミッド・サマーでも“いい所”に行ったと思ったら実はヤバい所だった
チディことウィリアムジャクソン・ハーパー


アリ・アスターが作り上げたホルガ村の数々の「クセの強い場面」は、ともすれば笑いを喚起させる。
それは不意にやって来るグロテスク表現も含めて、20代〜30代の頃のダウンタウン(松本人志)が志向した世界観とどこか似通った手触りを感じる。
しかし、そこでコメディに転調しない監督の舵取りは見事。不穏な音楽も相まって、画面には一貫して明らかな“不協和音”が広がっている。
先達の作品(代表的なもので『ウィッカーマン』)への確かな目配せが示す通り、『ミッド・サマー』の軸足はホラーにある。それも、作品単体として格段に優れたそれである。

可笑しいけど、笑うに笑えない。

明るく美しい映像には作中のドラッグ同様トリップ効果もあるが、“ちゃんと”不気味で怖い映画となっている

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みんなでセックス全力応援シーンはハイライトの一つ


物語面で言及すべきは、夏至祭での一部始終を通じて発される
「全く話の通じない他者にだんだんヘゲモニーを握られていき、人生が不如意のものになってしまう」
というあのイヤな感覚。
これは前作(『ヘレディタリー 継承』)にも共通する。

2作に共通するニュアンスは、インタビュー等で仄めかすに留まっているアリ・アスター本人の身に起きた「(家族の関わる)過去の辛い経験」に由来してるのかと思う。

この“仮説”の依拠するところは、『ミッド・サマー』の冒頭部分にある。

太陽が眩しい夏日とはほど遠い、雪の降る夜の市街地。双極性障害の妹に翻弄され、寄り掛かりたい恋人には敬遠され、抗不安薬を服用しなければならないほどにメンタルバランスを欠いているダニー。

余談になるが、ここでのフローレンス・ピューの演技はグッと来た。
特に「普通に電話に出たのに、話してるうちに涙がこぼれて止まらなくなる」シーンは本当に心を病んでしまった姿そのもので、身に覚えがあるようなないような、とにかく観ていて辛くなった(頭と身体がバラバラになって、自分で上手くコントロールできない様子を見事に体現していた)。

その後に待ち受ける、大きな事件。
コミュニケーションが断絶された(話が通じなくなってしまった)家族が引き起こした悲劇。

映画全体としてはオーバーチュアに当たる部分が、異様な緻密さで描かれている(「家族が引き起こした悲劇」と言えば『ヘレディタリー』自体がそういう筋立てである)。

冒頭部分の“具体性”がアリ・アスターの個人体験とどの程度リンクしているのかはわからないし、全く関係ないのかもしれない。そのあたりが今後詳らかに語られることはあるのかもしれないし、そもそもそんな機会は無いかもしれない。


いずれにせよ、観る者の考察欲を喚起させ、深読みへと誘う“作家性の監督”であるアリ・アスター。

次も間違いなく「アナタ、過去に何があったんです!?」と言いたくなるようなパーソナルな映画を作ってくるんだろうな。

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ニューメキシコ州での経験をもとに、アルバカーキで一本作る?

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