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もう11月なのに、長袖シャツ一枚ででかけて、なんなら歩いているうちに汗をかいてしまったりして。いつになったら本格的な秋は、冬はくるのだろう?晴れてからっとしているから気持ちいいし外にいても寒くないから毎日ピクニック日和みたいな最高の天気ではあるのだけれど、さすがにここまでくると恐ろしさも感じてしまう。

朝晩は幾ばくか涼しくて空気もからっとしていて、晴れの日が多い今は絶好の運動シーズンなのに、夏の終わりごろからさぼり始めてしまったランニングになかなか気持ちが向かず、こんないい時期にも関わらず私の足は玄関を一歩越えていかない。

そんな私の中でもランニングモチベーションが高まるポイントがいくつかあって、その一つが、ランニングの目的地にしている近所の公園で少年・少女たちがバスケットボールをしている姿を眺めること。あの姿を眺められるんだ、元気もらえるぞ、と自分の心を奮い立たせておとといも公園までどうにか走りにいくことができた。(あいにく、おとといはバスケットコートの上を走る道路工事だかなんかでコートに工事車両が入っていて、バスケット少年・少女たちは誰もいなかった)


バスケット少年・少女たちを見ると、なんと美しい姿なのだろうと思うのだ。誰に頼まれたわけでもなく、部活動的な義務もないのに、自ら朝早くから、あるいは学校が終わってからコートに出向いて仲間たちと一汗かいている。純粋欲求そのもの。

私がたまにそんな彼ら・彼女らの姿をインスタグラムのストーリーズに流すと全然スポーツ観戦なんて興味のなさそうな人たちからも何かしらの反応がある。たまに顔を合わせたときなんかは、「最近は公園いってないんですか?」と聞かれたり。

どんな人の目にもきっと、はつらつと身体を動かす人の姿は印象に残るものなのかもしれない。見ていて何の害もないし、試合じゃないから勝ち負けを決めるものでもないから誰かやチームに心理的に加担することもない。

でも、ああいう姿を美しいと人に思わせることができるのは、彼ら・彼女らがある程度まだ未熟な大人だからなのだろうか?あの姿は、大人になったわたしたちは誰かに見せることができるのだろうか?もっと無垢でわがままな欲求みたいなものが必要なのだろうか?あの美しさってなんだろう?



村上春樹のインタビュー集を最近読んでいて、自己表現をしなければならないことは現代の呪いの一つだという一説があった。

『今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水を飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇きます。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。……これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。』

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011


そうか、あの子たちは自己表現なんて微塵も考えずにただそこにいて楽しいことに全力投球なのだな。
私たち大人は何をするでも意味を求めて自己表現につなげたりする。何処かへ行くにしても、例えば何か映画を観にいっても、それを見に行く自分の姿を考える。あるいはSNSに投稿だってする人は多い。全てが自己表現という呪いにかかっているとも言えるかもしれない。

別にそれが悪いことではないのだけれど、そんな日常だからこそ、たまにそうでない姿を見ると感動するのだろう。例えば自然を求めて登山をしたりキャンプをしたりする人とか。広告のない土地へ行きたいと思うこととか。どこにも表現がない景色を見たいのだ。



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