見出し画像

最後のゼミが終わってしまった

(2024/3/27水)

最後のゼミが終わった。

修論提出時にもう論文指導は終わっていたのだけど
口頭試問で副査の先生に問われたことが消化しきれなかったこともあり
アディショナルタイムをお願いしたというアディショナルゼミだった。
忙しいのに時間を作ってくれた指導教員に感謝。

口頭試問の振り返りも丁寧にしてくださっただけでなく
最近ずっと考えていることについても先生の意見を聞くことができた。
これまでのゼミもずっとそうだった。
修論に直接関わる内容はもちろんいつも的確なのだけど
それに派生して、例えば

社会は変えることはできないのか
「主体としての自分」を放棄してしまった人を支援することはできるのか
その瞬間だけで終わってしまう活動にも意義はあるのか
パターナリズムとエンパワメントを対にして検討することは可能か(この分岐は何か)
「わかる=理解する・共感する」とはどういうことなのか

わたしのつきない、そして答えなどとうてい出せない疑問に
根気よく寄り添い、一緒に考えてくださり、学問の立場から検討するためのヒントをくれた。

なんて豊かな時間だったのだろう。
答えを出さなくていい時間。

仕事をしていると会議のゴールは最初から設定され
決められた時間内に答えを出さなければならないし
そうでない会議は時間だけが過ぎていてとても無駄に感じて撲滅したい。

ゼミの時間はそうではなく
(修論の締切はあれど)決められた時間に答えを出すことを目的としておらず
ただ先生と共に、社会のことを考えるプロセスそのものが肯定されていた。

なんて豊かな時間。
この時間のためだけに、学費を払った価値はある。

豊かな時間は、終わったのだ。

長い物語を一心不乱に読み続けて最後の数ページ、終わりたくなくて読み渋るような気持ちがあったけれど
物語は、読み終えなければならない。

「わたしは現場を知らず理想だけを語る、お花畑人間なのだと思うとそれがとてもつらいしコンプレックスに思う」
と言うわたしに先生は
「こんな時代にお花畑を見ることができるのは素晴らしいことです」
と言ってくださった。
きっとこの言葉はこれからのわたしを支えていくだろう。

ゼミの最後に先生は
「考え続けることは、我々のライフワークみたいなものですから。今後学会発表するとか投稿するとか研究を続けるとかそういうことに関わらず」と言ってくれて
このときに、「わたし」や「あなた」ではなく「我々」を主語にしてくれたことがとても嬉しかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?