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物理的暇と心理的暇

(2024/4/8月)

午後から大学時代(大学院ではなく20年前の方)の友人と代々木公園で花見をして、そのままなんとなく別の友人にLINEして合流することになり、結局23:00までなんだかずっとしゃべっていた。

シートも酒も自分も桜吹雪にまみれてよかった…!


会ったのはめちゃくちゃ久しぶり。
1人はコロナ前に一度あったけど、もう1人は5年ぶりくらいだったか。

そんな友人ら、2人とも、人生に飽きていて
「やることはあるし忙しいんだけど暇〜」と言っていて笑った。
人生が暇になる40前後なんだろうか。
それとも飽き性の人が集まる大学・学部だったんだろうか。
普段会う人はみんなほんっとに忙しそうだから、暇に今日する人が3人も集結するなんて。
わたしは今は物理的にも暇ぎみだけど(仕事がないからね…)物理的には忙しくても、心理的に暇という事態も発生するんだなあ。
どのくらいの人は、心理的に暇なんだろう。

これまでずっとわたしは、繰り返しの日々に飽きていることを課題視してきた。
なぜなら、物理的には忙しくはあったから。
でも、これは、「飽き」ではなく「心理的に暇」なのだととらえると
暇っていうのは、最高の贅沢だ。
なんて贅沢な人生なんだ。
「飽き」ならば解消したくなるけれど、「暇」なのだとしたら、ほっておけばよいし、この暇そのものを堪能すればよい。
暇だからこそ思考するし何かが生まれる。暇は創造の母じゃないか。そして創造は自己満足。
ここに日記を毎日書いているのも、暇だからだ。

それにしても…
あのとき、どう思ってたん?などと
若い頃のエピソードの答え合わせを10年以上の時を経てしてみると
自分のフィルターを通して理解する世界と
他人が理解している世界ってまるで違うんだなあ。
わたしが一方的に神格視していた友人の、そのカリスマ感の一因は「誘われたらいくけど自分から誘ったりはしない」部分にあったようにも思うんだけど(もちろん、面白いし賢いし友達多いしコミュ力高いみたいな基本資質あってこそだけど)自分から誘ったりしないのは、自分発信が苦手なだけだということだって驚いた。自分発信のボケはできない。ツッコミならできる。誰かの発信を受けてふるまうことしかできないと、友人はいっていて、わたしフィルターでの友人とめっちゃ違うやん……。
こういうときいつも頭の中にB'zのあの歌詞が頭に流れる。

たとえば どうにかして 君の中 ああ 入っていって
その瞳から僕をのぞいたら いろんなことちょっとはわかるかも

B'z 『今夜月の見える丘に


とても好きなフレーズ。
絶対に君の中に入ってその瞳から世界をのぞくことはできないんだけど
勉強するっていうのは、そういうことなのかもな、とたまに、思う。


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