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【時雨こぼれ話】 プロローグ 「そのずっと手前②」2016

《月曜モカ子の”私的モチーフ”第76回 「現代美人伝」》より
              
長谷川時雨。現代の日本にその名はあまり知られていないが、いわずと知れた大有名人であり文筆の大家である。
もともとは芝居の戯曲を書いており28歳で、歌舞伎史上女性初として歌舞伎の戯曲を手がける。大変な美人で、歌舞伎座では戯曲を書いた時雨のブロマイドが飛ぶように売れたという。
そのあと串田和美さんじゃない方の自由劇場(初代自由劇場)を作った小山内薫や、6代目菊五郎などと芝居の世界で活躍、明治の終わりには「シバヰ」という演劇雑誌も創刊している。

 
その後、時雨は十歳以上も年下の名もなき文学青年と大恋愛をし彼を支えることにすべての時間を使い鶴見から神楽坂に数年通った。
その後神楽坂で同棲、数度の引越しをするうちに、時雨の献身的な後押しもあり、名もなき文学青年は三上於菟吉という大衆文学の大家となり売れに売れた。代表作に「雪之丞変化」がある。
表舞台から少しなりを潜めた形になっていたその時期も、松井須磨子や貞奴や、当時の女流作家や女優のことを書いた「近代美人伝」は「美人伝の時雨か、時雨の美人伝か」と言われるくらいの人気を博した。
                                  わたしが長谷川時雨という人を知ったのは「女たちの20世紀・100人」という本を資料として読んだのがきっかけだった。
与謝野晶子、三浦環、松井須磨子、淡谷のり子・・・誰でも知っているビッグネームが名を連ねる中、わたしは「長谷川時雨」という女性に強く惹かれた。
まず名前に惹かれた。それから、今の日本では森光子のでんぐり返りですっかり有名になっている、林芙美子の文壇デビュー、あの、ひっくり返って「わたしの小説が雑誌に載るのよ!」というシーン、その雑誌こそが、長谷川時雨が創刊し、市ヶ谷の左内坂に自宅兼編集室を構えた「女人芸術」だったと知って、彼女のこと、もっと知りたいと思った。

                                   (↑左内坂)
そして、知れば知るほどに、わたしは長谷川時雨という女性に深くのめり込んでいった。どちらかというと彼女の書いたもの、というよりは、その生き様に。
美人でお洒落で、名だたる文化人が時雨を狙っていたのに、無名でお金もない年下の恋人を選んで、彼を支え尽くし続けた彼女。売れに売れてからはそのひっきりなしの締め切りの窮屈さに、
酒を飲み女を抱きを繰り返した夫を、
それでも帰って来やすいように「敷居は削っておきました」と涼しい顔で言っておいしいお茶を淹れた時雨。
支え続けてもらっているお礼と女道楽のお詫びに、大家となった三上於菟吉が、「これでダイヤの指輪でも」と差し出した当時の2万円で「わたしまた雑誌を作りたいの」と「女人芸術」を創刊した時雨。

昭和3年に創刊された女人芸術をわたしは昭和6年までの全巻読破して、たえず十数冊は手元に置くようにしていた。図書館で取り寄せるのだが手続きをすると、ひと月借りて置くことができる。そして返す日に手続きすると、
次が待っていない場合、続けて借りることができる。
女人芸術を待っている人は基本いないので、そうやってわたしは、ずっと女人芸術を手元に置いていた。船パリが書けなくなって、一旦手放すまではずっと。

先週、長谷川時雨のお墓を参ってから帰宅して、久しぶりに「女人しぐれ」という、三上於菟吉の視点から時雨を描いたような構成の伝記物語を開いて読みふける。平山壽三郎という人が書いたものだが、まるで時雨と於菟吉と一緒に暮らしていたかのような瑞々しさで描かれており、ついのめり込んで読んでしまう。
前に読んだのが2011年ごろ? 数年ぶりに開いたこの本は、また新しい切り口でわたしに語りかけてきた。
内容はだいたい覚えていたのだけど、最初に読んだ時、わたしの中には、「勿体無い」という気持ちと「不思議さ」だけが、大きく残っていた。
どうしてこんなにも素晴らしい才能の持ち主が、その才能を10数年も停滞させなくてはならなかったのか。
なぜ自分の才能の足を引っぱる男をこんなにも愛し、それに合わせて生きていったのか。
その勿体無いない時期への後悔を胸にもしかして自分が生まれ変わったのではないかと思うほど(ファンの皆様失礼)に、わたしは、時雨の空白の十数年を悔やんでも悔やみきれないほど自分事として、勿体無いと悔いた。

けれど、今回読んで感じた感覚は、長谷川時雨の気持ちがよく解るなあ、というものだった。前よりもすごく理解できたし、文学的空白の時間を「空白」とは感じないわたしがいた。
「生きていく」ということは「書いていく」と重なりはするけれど、「書いていく」に「生きていく」がいつも重なるわけではない。うまく言えないが「書いていく」ということは「生きていく」の伴走であって、「生きていく」といことが「書いていく」の伴走であるのは、寂しく、不幸せなことだ。  

おそらくこれまでは「誰かを好き」という気持ちはあって、それに嘘はなかったとしても、「誰かと生きていく」という細胞感覚がわたしの中にはなかったのだろう。


いま、わたしの好きな人には一緒に生きている別のパートナーがいて、わたしがその人と「生きていきたい」と思っても、それは叶わない。
けれども、少なくとも、そのいまの時間もわたしは太く「生きている」し、誰かを想うことを「好き」とかいう、いわゆる槍で的を突き刺すようなもの、として捉えなくなったことは成長ではないかと思う。
きっと向こうも、槍でポイントを突かれているだけ的な勝手な感じは今は受けていないと思うし。
                           
そのことを教えてくれたのは、祖母が亡くなる時の最期の5日間と、姪が生まれてから一年間の濃い子守の期間だった。


その時期初めて、ぬるい意味ではなく「小説なんか」と思えるほどに人生が濃かった。人の生き死にのすぐそばで、沈みゆく夕日と昇ったばかりの朝日を抱きしめ、わたしは「書いてゆくこと」は「生きてゆくこと」の伴走に過ぎないと知った。すぐ下の妹がわたしにつけてくれたブログのサブタイトル
「感じること書き記すこと前に進むことが、中島桃果子です」
というのはこの頃の発見と、それを反映しはじめたわたしの生き方を上手に反映していると思う。


一葉さんだってこうして書いたのだもの、女はみんなこんなもんよ。与謝野さんなんぞはたくさんの子どもを抱えて、叱りつけながら原稿を書いているのよ。それでなければ女に文学なんぞできはしないわ」
                             
 
於菟吉の家と実家を切り盛りし、於菟吉の家に集う文壇青年たちをもてなし、合間に近代美人伝をささっとあげて新聞に連載していた頃の時雨の台詞である。
                                 
時代のうねりにいた男たちとその日々、それらを150パーセント支えなければならなかった女たちは、一日中を家のことに追われながら、男や子供が寝静まった深夜にさらさらと文学を書いた。
この対比が面白いなあと思いながら、
                                  実際、わたしも、おばあちゃんが死の床に伏した時は、毎日4時間程度の睡眠で、ずっとおばあちゃんを看ながら、ほんのすこしおばあちゃんが眠ったその隙に、連載原稿の官能小説をさらさらと書いた。こんなもんなのだなあ、とその時実感したことを覚えている。
悩んでる暇(時間)がないからとにかく書くしかない。
何しろおばあちゃんは長く眠ることもできなくなっていたから。
かたや今にも亡くなる人に氷を含ませ、その足で数メートル離れた食卓につきエロティック小説を書く。なんなら目の端にいつもおばあちゃんを入れながら。女の脳みそはマルチタスクなのだ、それが女の文学の面白さである。

そういう経験をして、わたしは、前にこの本を読んだ時の自分がいかに浅はかだったかを知った。
人生に空白などない。
文学的空白があったとしても、それは人生を濃く生きていれば、また次のシーズンが来た時により濃いものとして、放つことができる。現に「女人芸術」がそうである。空白を経て創刊した時の女性執筆陣の豪華なこと豪華なこと。そのクレジットが、空白などなかったことを証明している。

わたしはとても不器用だから、すぐに「生きていること」と「書いていること」を分けて、とりあえずはこっちを今頑張ろうとしてしまう。でもその極端さゆえに思わずバランスを崩すこともある。
それがもどかしくて、歯がゆくて、
時雨さんに会いに行けば、何かコツを教えてもらえるのではないか、そう思っていた。
時雨の生き様はそれらすべての清濁をあわせのんで、彼女そのものが至極女女(おんなおんな)しいであると同時に、劇的に文学的でもあるのだから。

時雨のお墓の前に佇み、わたしは時雨さんに話しかけた。
聞きたい言葉がある。
                                 
「あなたのように恋にも愛にも文学にも、芝居にも人生にも藝術にも、大きな華をもたせるにはどうしたらいいんでしょう? 
わたしもそうありたいと思っているけど、そしてきっとそうできるはずだって思っているんですけど、何かが圧倒的に足りない。
一体わたしに、なにが足りないんでしょうか?
すべてがあと少しな気がするのに、
何もかもが決め手に欠けるんです」
                                   
總持寺にて必死で尋ねた質問に、長谷川時雨は、言葉ではない、気配のようなもので、こう答えた。 

    
”強く決心し、そして実行することです、貫き通す芯の強さが肝心です”

                                  
空は水色で、はじのほうが桃色に染まり始めていた。
蒸し暑い夏の気配を拭うような夕暮れの風が吹いていた。
                                   
言葉はわたしの細胞の隅々にまで、ゆきわたってゆく。

          <モチーフvol.76「現代美人伝」2016>

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